破天荒な教師が主人公のドラマ『リタ』から考える、「生まれ」と「育ち」問題
学校という場所に当事者として通っていた頃からもうだいぶ年月が経った。義務教育はさておき、高校を卒業してから外語大、カナダのCA育成専門学校、日本に戻って大学と3つの学校に通ったが、いまだにそれが役に立ったのかどうかは正直分からない。小学校英語教員の免許を取ったり、はたまた翻訳や人類学を学んだり、音楽を専攻していたわけでもないのに気付けば音楽家になっていたり……自分というものを分かっているようでそうではないのが本音で、ひとつ言えるのは選択の積み重ねの上に今があるということだ。
教育現場においては「Nature(生まれ)」と「Nurture(育ち)」というワードがしばしば使われ、対立するものとして論争が起きたりする。私が先に述べた選択も、「育ち」から培われた価値観があり、その選択をするに至った。しかし、現代においては生まれと育ち、どちらが大切かはもはや関係なくなってきているように思える。今回ピックアップした『リタ』を観ていたら、なんだかそんな気がしてきたのである。
デンマークのとある学校の教師と、彼女を取り巻く家族や学校での出来事を描いたドラマ『リタ』は、Netflixの数ある北欧作品の中ではめずらしくコメディ調で、ノルディックノワール(ミステリー小説の一種で、暗い雰囲気と複雑なストーリーが特徴とされている)とはまた違った視点から社会問題や人間性に迫った作品である。
「学園モノ」ではあるものの大人の教師が主人公で、日常に潜む問題をブラックジョーク的な演出を相交えて面白おかしく解決していくので、観ていて痛快だ。
主人公であるリタは教師かつ3人の子供を持つシングルマザーで、サバサバとした性格とオープンな思考ゆえに、保護者にも教師にも自分の息子にも思ったことをはっきり伝えたり、問題の原因をストレートにすっぱ抜いていく。例えば、シーズン1では砂糖の不使用を求める保護者や、ADHD(注意欠陥・多動性障害)を抱える生徒がクラスの悪者にされてしまう状況に、立ち向かっていく姿が描かれる。他の職員から頼られ生徒にも人気なのだが、ひねくれて破天荒な一面もあって私生活はなんともうまくいかない……という物語だ。
多様性とは、一部の性質を持つ人だけを認めることじゃない
多様性について、我々はどの程度の理解があるのだろうか。このドラマを観ていて私が感銘を受けたのは、学校教育の中に教育内容云々はともかく、多様性への理解が念頭にあることだ。デンマークを含む北欧と日本では、教育システムとそのシステムが構築されるまでの背景が全然違うのだろうが、近年急速に進められている、多様性に配慮した取り組みは北欧各国が先進であると感じられる。
ここで言う多様性というのは、右利き・左利きの人、ハンディキャップのある人、ADHDの人、LGBTQの人など、生まれつきのさまざまな性質(Nature)を持つ人のことで、さらに言えば育ち(Nurture)による事情がある人なども含まれる。
我々の住むこの日本において、その多様性を日常的に知るところまでやっと差し掛かってきたが、本質的に理解し共存していくところまで到達しているとは個人的には言い難い。なぜならばその多様性の中には、先に述べたさまざまな性質を持つ人の他にも、天才と言われる人、平凡と言われる人、自分は普通だと思っている人も含まれるはずだからだ。つまり多様性という概念は本来、我々人間全般のことを指すのだろうし、もしも利き手やハンディキャップ、性的指向だけをハイライトするのであれば、結局は人間を分類して差別化を図るのと同じで、つまりは差別を助長することに繋がると思うのである。
『リタ』を観ていると、少なくとも北欧圏においては、学校教育の中に、多様性を柔軟に理解し共存しようとしており、その上で起こるさまざまな問題を、子どもも大人も一緒に考えて解決していくのだと感じる。理不尽なルールだとか、もう現代の社会とは適合しない古いシステムを、根本的に改善していくことができる。
「普通」からはみ出たものを「異常」とする価値観は、どこからきたのか?
前回までのコラムと重なる部分もあるが、世の中には規律などから派生して生まれた優劣感による、二極化した意識が存在する。社会で生きていくにあたって、我々は一定の価値観や規律を幼い頃から学校や家庭で身につける(「育ち(Nurture)」とも言える)。それは、平和に幸せに暮らしていくために、そして地域や国が発展していくために、長い年月をかけながら作り上げられたものである。
仕事や役割が細分化され、評価基準が設けられ、意識向上と実績のために競わせる。そういったシステムが成就して高度経済成長を経たのは確かで、暮らしにはたくさんのルールが制定されて、より住みやすい環境が整えられている。
その一方で、『ぼくのエリ』や『幸せなひとりぼっち』のコラムでも何度か引き合いに出した、「大人と社会が作り上げた教育観念への風刺」だとか「規律によって生まれる優劣観」にも通ずるのだが、多様性への理解が乏しいまま、一定の価値観の上に積み重ねられてきたシステムは二極化を助長し、社会的弱者や変わり者、「普通」じゃない者は排除されるようになってしまったのだと私は思うのである。
1960年代からアメリカではじまった「Nature or Nurture(子どもは生まれか育ちか)」という論争も、元をたどれば遺伝的異常で産まれた子どもの治療のために始まったもので、そもそも「異常」は治療されなくてはならないという既成概念も、その論争を考えた医師の育ちによる優劣観で出来上がっているのではないだろうか。
多様性の中に、自分自身の存在を見いだすことが大切
もうひとつ、Black Lives Matter運動(アフリカ系アメリカ人に対する警察の残虐行為をきっかけにアメリカで始まった人種差別抗議運動のこと)で再び人種差別が浮き彫りとなったアメリカ、同性婚や選択的夫婦別姓が議論となっている日本、挙げればキリのない論争を、Nurture(育ち)による社会的価値観の違いに加えて、何がここまで助長しているのかを考えたい。
この諸悪の根元となるのはおそらく、多様性の誤認であると考える。先に述べたように、多様性という概念は我々人間全般を含むと思うが、そもそも多様性の中に自らを投影していない人、そして多様性の中に自分が入っていると自覚している2種類の人間がいる。大概の場合、先ほど述べたようなハンディキャップのある人などが取り上げられ、差別を受けてきた。そして、差別する側が「普通」で優勢だと考えてしまう人を、差別を受けた側が疎ましく思ってしまうのも仕方のないことである。しかしこれは、本来は多様性の誤認であって、ナチスのようにわざと誰かが差別を助長したのではないはずだ。
既に構築されている社会の概念やシステムを変化させるためには、世の中で「当たり前」とされるものが誤認で、もしくは特異であることも「普通」なのだと人々が理解していくこと以外に方法はないであろうと私は思うのである。それも噛みつく喧嘩ではなくて、リタが教室で子どもたちに教えるように、多様である自分たちの相互理解ができるような、人に優しい方法が存在するはずだと私は信じている。
連載:AAAMYYYが観るNetflix北欧映画&ドラマ
Netflix好きで知られるミュージシャン・AAAMYYYがNetflixで公開されている北欧映画やドラマから独自の考えを綴るコラム連載。これまで『ぼくのエリ』『ザ・レイン』『ラグナロク』など取り上げた。
- プロフィール
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- AAAMYYY (えいみー)
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長野出身のシンガー・ソングライター / トラックメイカー。キャビンアテンダントをめざしてカナダへ留学、帰国後の22歳より音楽を制作しはじめ、2017年よりAAAMYYYとして活動を開始。2018年6月、Tempalayに正式加入。2019年2月、ソロとしての1stアルバム『BODY』をリリースした。