※本記事は映画『ぼくのエリ 200歳の少女』、Netflixオリジナルドラマ『マインドハンター』本編の内容に関する記述を含みます。あらかじめご了承下さい。
連載2回目に選んだのは、本来嫌いだったはずの吸血鬼映画『ぼくのエリ 200歳の少女』
吸血鬼は昔から映画によくある題材のひとつだ。民話や伝説で多く登場する、狼男だとか魔女だとかと肩を並べる、いわゆる怪物である。最近では小説『トワイライト』シリーズや、小学校の図書館にあった『ダレン・シャン』が実写化されたのが記憶に新しいが、Netflixにも『ドラキュラ伯爵』『ヴァンパイア・アカデミー』『シャドウハンター』などさまざまな吸血鬼モノが揃っている。でも、ヴァンパイアは容姿が整っていて超人的な身体能力を持ち、頭脳明晰というエゴ的な設定が多く、これまでは敬遠していた。
そんな数ある吸血鬼モノの中で、私が今回選んだのは2010年に日本公開されたスウェーデン映画『ぼくのエリ 200歳の少女』(以下、『ぼくのエリ』)だ。主人公のオスカーは母子家庭で、学校ではいじめられ、どこにも居場所がない12歳の少年。いじめっ子にやり返せないまま、自分の部屋にナイフを隠し妄想の中の復讐にふける。
ある日、隣の部屋に親子が引っ越してきた。引っ越してきたばかりの少女エリと出会い、ふたりは次第に惹かれ合う。エリとオスカーは壁越しにモールス信号で会話をするようになり、学校でいじめられてばかりのオスカーは、エリに感化され、強くなるためのトレーニングを開始する。
その一方で、近所では奇妙な殺人事件が頻発していた。ある夜、町のアパートに住む男が目撃したのは、男を襲って血まみれになったエリだった。そしてオスカーも、エリが吸血鬼だという秘密を知ってしまう。
今回、『ぼくのエリ』を選んだのは、他の吸血鬼モノによくあるプロパガンダ的表現が無く、客観的に全てが映し出されているからである。私なりの解釈でこの映画をふたつのテーマから紐解いていきたい。ひとつ目は「コンプライアンスと表現の自由」、ふたつ目は「大人と社会が作り上げた教育観念への風刺」だ。
修正して公開された、ふたつのスウェーデン映画。根底にある「コンプライアンス」の存在
1971年に日本公開された『スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー(邦題:純愛日記)』という、ロイ・アンダーソン監督の長編映画がある。Fikaの記事にもこの映画が取り上げられている。
劇中では14歳の少女アニカと15歳の少年ペールが、大人びた服を着てバイクを乗り回し、タバコをふかしながらウイスキーを飲み、一夜を共に過ごす。『ぼくのエリ』とも共通するのは、12歳から15歳くらいのアンダーエイジの恋や、すれすれの倫理観が描写されていることと、スウェーデン本国公開時ではノーカット無修正で放映されたが、日本では修正が施された上で上映されたことだ。おそらく、このふたつの映画が当時修正版で公開されたのは、「コンプライアンス」のためであろう。コンプライアンスは本来、企業による法令遵守を指す言葉だが、今回は「社会の倫理観や道徳観を守る」という広義の意味で使用したい。
現在はR指定表示やEXPLICIT表示(子どもに不適切な内容が含まれている可能性があることを消費者に警告するために、メディア製作者が発行するラベル)が導入され、過激なシーンや不適切とされる表現も、注意表記の元そのまま見ることができるようになってきた。欧米ではラジオで不適切な用語が流れるときは必ずピーと音がなる。
社会的背景がかなり影響するが、子どもの成長において悪影響を及ぼしたりするものや、映画配給会社にリスクが及ぶものを事前に阻止するために、コンプライアンスという考え方は存在する。『スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー』では未成年による飲酒喫煙や無謀とも思える行為、小児性愛犯罪への懸念、『ぼくのエリ』ではいじめや暴力犯罪などの助長を防ぐためだと考えている。
「子どもが見るものではない」と決めつけてしまう、大人たちのエゴ
映画や音楽はアートであり、それぞれの表現者の過去の体験や日常に感じる違和感、心を揺さぶられるものなどを独自の方法で表現したものだ。そこには社会へのアンチテーゼ、暴力的風刺、生死感や価値観などが反映されるだろう。コンプライアンスに囚われずにいるのは、恐らく近代のウォルト・ディズニーアニメーションくらいしか思いつかない。
『ぼくのエリ』で、オスカーがいじめっ子に頭を押さえつけられ、プールに溺れさせられるシーンがある。ここで吸血鬼のエリが登場し、いじめっ子を殺してオスカーを助け出し、プールには胴体のバラバラになった子供の死体が浮かぶ。私の所属するTempalayが昨年リリースした“そなちね”のミュージックビデオでは、夏休みの自由研究で少年が銃を密造し、その銃をこめかみに当て倒れるシーンがある。それが一体どういう意味なのか賛否両論を繰り広げ、特に子どものいる視聴者からは「子どもと一緒に見るものではない」という意見も飛び交った。
では、実話を基にしたひめゆりの塔は、「9.11」の映像は、子どもと見てはならないのだろうか?
表現の自由はもちろん守られるべきだと表現者自身として切に願うのだが、グローバル化し多種多様になった社会になりつつあっても、社会における「倫理観」によって規制されてしまう。何もかもさらけ出すことが、どうして難しいのだろうか。その答えは昔からひとつしかなくてずっと変わらない、「大人が作り上げたエゴ」のせいだと私は考える。
親になった人のほとんどが、自分の子どもを愛していると思う。愛しているがゆえに、幸せになってほしいと願うばかりに、歪んだ方向に子どもは育てられてはいまいか。「子どもの幸せ」とは一体何なのか。
ドラえもんのジャイアンがヘルメットを被って自転車を漕いでいるシーンを見たときは、そうした安全確保は重要だと承知しながらも、「コンプライアンスにも程がある」と笑ってしまった。とある小学校では「きちんと給食費を支払っているのに『いただきます』と言わせるなんて」という保護者の苦情により、給食を食べる前に「いただきます」を言わないらしい。どちらも子どもの教育上、悪影響を及ぼすであろう要素を排除するためのコンプライアンスと思いきや、実際は大人たちの勝手なエゴに対処するためのものであるのは、よく考えれば分かると思う。
だが、気持ちは分かる。蒟蒻畑のゼリーの容器も、お風呂の注意書きも、自転車に乗るときにヘルメットを被ることも、全部子どもや誰かを思う人が作ったルールだ。でも何だか腑に落ちない、別の問題を浮き彫りにしていると感じないだろうか。
学校で孤立し、ストレスから書道教室をずる休み。AAAMYYYの孤独な記憶
Netflixオリジナルドラマ『マインドハンター』は、FBI捜査官が凶悪犯罪者の心理を分析し、シリアルキラーを未然に逮捕するために奔走するという、実話を基にした話だ。その中で、捜査官の幼い息子が近所の新生児を殺してしまうシーンがある。普段から言葉を発しようとしない息子は、父親の書斎から殺人現場の写真を見つけ、幼心にも人間を殺める行為に好奇心を抱いていたことがひとつの要因との描写があった。
だがそれだけではなく、私が思うに、忙しい父親とうまく交流が持てない息子が、愛情に飢えていたのがもうひとつ大きな要因であると考える。
『ぼくのエリ』のオスカーは居場所がなくてひとりぼっちだ。母親は優しいがいつも仕事でオスカーを相手にしていられない。オスカーの妄想の中での復讐は、気持ちをうまく表現できないオスカーの葛藤が顕著に表れていると言えるのではなかろうか。劇中に出てくるいじめっ子たちも、よくいるリーダー格とその取り巻きの3人組で、特にリーダーの男の子は日常や家庭に何らかのストレスを抱えており、それをオスカーにぶつけているように見える。
自分が子どもの頃、どんなことにストレスを感じていただろう? 私自身は家族に愛されながら、割と自由奔放に育てられたと思うが、学校でいじめのターゲットにされたり、思春期の同級生からかわれたりしたこともある。かつて活発だった私も一気に孤立し、ストレスで書道教室を何度もズル休みしたり、家に引きこもるようになった。
姉の高校のバレー部の標語「苦しきときこそ笑顔」という言葉に感化され、何となく親に迷惑をかけないように勉強と部活だけ頑張った。その後は進学高に入学し、一目散に下宿に入った。高校では奨学金を使って海外留学を繰り返し、CA(キャビンアテンダント)を目指すことになるのだが、私の今述べた学生時代の行動の中にいくつもの「刷り込まれた価値観」があるのにお気づきだろうか。
「刷り込まれた価値観」に踊らされる私たち。それは本当に「悪」なのか?
「刷り込まれた価値観」とは、生まれながらにして抱く先天的価値観(好き、おいしいなど)ではなく、周りや社会からの影響でそれが「良い」「悪い」に当てはめられた後天的価値観のことである。(岡本茂樹著「いい子に育てると犯罪者になります」より一部抜粋)
よく考えてみれば、いじめのターゲットになったのには私自身や同級生の何らかの悪しき理由があったであろうし、そもそも、孤立したり引きこもることが「悪」なのも変だ(そのおかげで今音楽家として生きているのも事実だ)。
苦しきときこそ笑顔で本当の気持ちを表に出せず、親に迷惑をかけないという考えで、よりひとりで抱え込むようになった。勉強と部活だけ頑張ったのは推薦入学のためだし、海外留学をすれば周りから評価されると思っていた節もある。CA(キャビンアテンダント)という仕事も華やかそうで、憧れがあった。どれにおいても良し悪しは一概には言えないが、私にとっては、それらが自らをより良い人間に導くと信じていた「刷り込まれた価値観」であった。
つまり何が言いたいのかというと、たとえば「有名進学校に入って医者になり、お金持ちになって一等地に高級車とともに住む」というような誰かの幸せの価値観は、その人が幼少期から成長する過程において後天的に周りから請け負った価値観であり、それが社会的価値観となっているということだ。親が幼少期に経験してきた苦労を子どもにかけないように、親の価値観で愛を持って子育てしている人が大半だと思うが、しかし果たして親の価値観は、その親の親からの受け売りではなかろうか。
そして社会的価値観は、必ずしもすべての人に当てはまる価値観ではない。恐らく激しい描写やショッキングなシーンのある映画や音楽で表現されているものが、それを風刺し訴えているのではないかと思う。それが社会の倫理観という「ふるい」にかけられ、各家庭や個人で良し悪しの価値観の天秤にかけられる。そのときにあなたの価値観が刷り込まれたものなのかを理解し、受け入れ、より考えを深く巡らせることが非常に大切だと思うのである。
関連するオススメのNetflix作品:
『マインドハンター』『はじまりへの旅』
- リリース情報
-
- Tempalay
『21世紀より愛をこめて』(CD) -
2019年6月5日(水)発売
︎価格:2,860円(税込)
PECF-32341. 21世紀より愛をこめて
2. のめりこめ、震えろ。
3. そなちね
4. 人造インゲン
5. どうしよう
6. 脱衣麻雀
7. Queen
8. THE END(Full ver.)
9. SONIC WAVE
10. 未知との遭遇
11. 美しい
12. おつかれ、平成
- AAAMYYY
『BODY』 -
2019年2月6日(水)発売
価格:2,547円(税込)
PECF-32221. β2615
2. GAIA
3. 被験者J
4. Z(Feat.Computer Magic)
5. ポリシー
6. ISLAND(Feat.MATTON)
7. 愛のため
8. All By Myself(Feat.JIL)
9. 屍を越えてゆけ
10. EYES(Feat.CONY PLANKTON)
- Tempalay
- プロフィール
-
- AAAMYYY (えいみー)
-
長野出身のシンガーソングライター / トラックメイカー。キャビンアテンダントをめざしてカナダへ留学、帰国後の22歳より音楽を制作しはじめ、2017年よりAAAMYYYとして活動を開始。2017年の『WEEKEND EP』を皮切りに、『MABOROSI EP』『ETCETRA EP』と3作品をカセットテープと配信でリリースしている。さらに、RyohuのゲストボーカルやTENDREのサポートシンセ、DAOKOへの楽曲提供やCMソングの歌唱、モデル、ラジオMCなど多方面に携わるなか、2018年6月からはTempalayに正式加入。2019年2月、ソロとしての1stアルバム『BODY』をリリースした。