アンスティチュ・フランセ東京の特集として上映された『8月の終わり、9月の初め』(1998年)上映後のトークで、フランスの名匠オリヴィエ・アサイヤスは、「私たちは現在進行中の変化のひとりの証人である」と語っていた。確かに彼は作品ごとに様々なジャンルや形式に挑戦しながら、映画を通して、変貌の途上にある世界を検証してきた。
『冬時間のパリ』では、紙から電子書籍へとデジタル化の波が従来の文化を侵食しつつあるパリの出版業界を舞台に、中年の編集者(ギョーム・カネ)や作家(ヴァンサン・マケーニュ)、女優(ジュリエット・ビノシュ)たちが、その変化にどう向き合うかについて機知に富んだ会話や議論を巡らせる。と同時に、2組の夫婦の不倫──彼ら4人のうち3人が不倫をしている──から展開される軽やかな恋愛群像劇だ。
文学だけでなく、映画もまた従来の鑑賞方法だけでなく、新たにストリーミング配信で視聴するカルチャーが浸透しつつある。アサイヤスは、文化的にも時代の転換点といえる現代を一体どのように感じているのだろうか。
私がデジタル化に興味があるというよりも、社会の変化が私に押し寄せてきたのです。
―アサイヤスさんは、過去作『アクトレス 女たちの舞台』(2014年、以下『アクトレス』)『パーソナル・ショッパー』(2016年)でも、デジタル文化が影響を及ぼす現代社会の変化に関心を向けてきたといえます。
アサイヤス:私自身がデジタル化による社会の変化に興味があるというよりも、どちらかといえば、社会の変化が私に押し寄せてきたといえるかと思います。現代の社会について語るときには、個人がそのような新しいツールに対してどういう風に向き合っていくかを自ずと語らなければなりません。
なので、デジタル化それ自体を話したかったわけではなく、『アクトレス』や『パーソナル・ショッパー』の女性たちが自分の困難なときに、デジタル化のツールを使ってどう対応をしているか、どう向き合っているかということを語ることに興味があったのです。
―現代社会と向き合う人に関心があるのですね。本作のフランス語題は『二重生活』。ジュリエット・ビノシュが同様に女優役を演じる『アクトレス』や、セレブを代行する買い物係が他者のドレスを身に纏う『パーソナル・ショッパー』を見ても、近年の監督作に「二重性」という主題の共通点も感じられます。
アサイヤス:ある意味そういえるかもしれません。挙げていただいた作品はすべて現代における出来事を描いています。そこに私の現代社会に対する視点がある。だから共通項があるのでしょう。
『冬時間のパリ』にはデジタル化による現代社会の変遷はどのようなものだろうかと問いかけている姿勢がありますが、一方、『アクトレス』や『パーソナル・ショッパー』はデジタル化した世界に埋没している人物を描いています。
前の2作がデジタル化した世界に対して、少し距離を持った視点で描いているのに対して、本作は考察がより多く入っていると思います。ひとつの作品がなにか問題提起をすることによって、観客たちがその討論に参加できるような作品を作りたかったのです。そのような作品はいままで映画界では避けられてきた傾向がありますが、今回はコメディータッチで挑戦してみました。
―『冬時間のパリ』は、同じく編集者と小説家が出てくるという点では『8月の終わり、9月の初め』とも近い作品だといえますが、本作では「死」など劇的な出来事が起こりません。
アサイヤス:確かに。そのために、本作は少し難しいところがありました。シナリオを書き始めたとき、最初は会話シーンが羅列されているだけでした。演劇の戯曲が第1幕、第2幕と続くように、それらが連鎖して発展していったんです。なので、どういう風なビジュアルになるか、そのランドマークになるものが全くない状態でした。
それにアパートメント、職場、レストランと、撮影するシーンごとに大きなロケ地の移動もないため、対話をベースにどれだけビジュアル的にビビットにできるか、そしてセリフを生き生きとさせるにはどうしたらいいかは悩みました。演出的にもなかなか大変で、撮影のときは毎日朝からどうしようか、考えていたんです。
重大な変化が起こっている現代において、それを無視して止まり続けることはできない。
―その中で、当時のフランス社会の変容について議論が繰り広げられるエリック・ロメール(フランスの映画監督、2010年に逝去)の『木と市長と文化会館/または七つの偶然』(1992年)が指標になったのでしょうか。
アサイヤス:そうですね。ロメールは、ふたつの一見異なる要素を共存させている作家です。ひとつは、印象派にとても影響を受けている点。季節の変化や自然に影響を受けていて、光の透明感というものを感性に入れ込んでいます。そのようなものが彼の描く世界ではとても重要です。脚本の文体においても無駄なものが削ぎ落とされて洗練されている。彼の作品では、いつも人間の心理描写や人間関係の感情の動きがきっちりと描かれるのです。
そしてそれと同時に、語られていることはシリアスだったり、社会に対しての考察が含まれている。彼は、そのときどきの時代の変化というものにとても敏感でした。『木と市長と文化会館/または七つの偶然』はセンチメンタルコメディーでありつつ、時代に対するジャーナリスティックな視線もあります。私は、『冬時間のパリ』の中でそれを実践したいと思いました。
ただし、私はデジタル化の問題に対して「答え」というのは与えていません。それは観客に考えてほしいのです。問題の複雑さを示すこと、問題提起をできるというのが映画のいいところだと思います。映画というのは、決して答えを与えてはいけないのだというぐらいに考えています。
―確かにあなたは紙と電子、アナログとデジタルのどちらかに優劣のジャッジを下すことは避けていますが、ルキノ・ヴィスコンティ(イタリアの映画監督、1906~1976年)の『山猫』(1963年)劇中の台詞「変わらないために、変わらなければならない」を引用しているのが印象的でした。
アサイヤス:この台詞を語る『山猫』の公爵の視点に私は全くもって同感です。公爵が言っている言葉は、どちらというとギヨーム・カネ演じるアランの見解と通じています。とても根の深い重大な変化が起こっている現代において、それを無視して止まることはできないのだということです。
それは政治の世界でも同じで、アメリカでもヨーロッパでも15~20年前では考えられなかったような最悪の状態に来ている。だからこそ、公爵のあの言葉は、ヴィスコンティがあの作品を撮った当時よりも、いまの社会のほうが一層響くものが大きいと思います。
深いところでは映画そのものは変わっていないと思っています。
―以前レベッカ・ズロトヴスキ(フランスの映画監督)にインタビューした際、彼女は、自身の映画『プラネタリウム』(2016年)と『パーソナル・ショッパー』が、どちらも幽霊とつながるためにテクノロジーが媒体になっているのが興味深いという風に語っていました。
アサイヤス:そのお答えになっているかわかりませんが、私自身はもう少し複雑な視点を持っているかもしれません。幽霊や死者たちとつながる降霊術のようなものは完全にファンタジックな世界ですが、かつては写真や映画も呪術的なものが介入して私たちに届けられていると考えられていました。
しかし、例えば医学におけるX線や超電磁波の治療法など、科学の解明や発展によって、映画も霊感を必要とせず、実はもっと科学的にアクセスできるようなものだということを、人間はようやく実感してきたのだと思います。
―彼女は、その変化は映画制作のデジタル化やフェイクニュースを作れてしまう時代とも関連があるのかもしれないと認識していました。
アサイヤス:私は、それはあまり関係がないかと思います。映画の音のデジタル化は20年前から始まりました。その後、編集もデジタルで作業するようになり、デジタルカメラができ、いまではチェーン体制の映画館のほとんどはデジタル上映を行っています。
しかしだからといって、様々な映画が作られ上映されるプロセスの中で、映画そのものは変わったのだろうかといえば、私自身の印象では根本的に映画そのものは変わっていないと思っています。やはりレンズや役者は必要であり、出来上がった作品は映画館で上映します。それらは変わっていません。
またフェイクニュースに関しては、かつて「プロパガンダ」と呼んでいたものを現在そう呼び始めたのだと思います。名前を変えているだけで、そうした大衆心理操作は21世紀に始まったことではなく、19世紀からありました。全然新しいものだと思っていません。
自分と映画の関係性のあり方を、個人の責任で決定しないといけない時代になったと思います。
―デジタル化によって映画の消費方法も大きく変わりつつあります。Netflixなどストリーミングでの映画鑑賞についてはどのように考えていますか。
アサイヤス:ふたつのことがいえるかと思います。まず、昔は観ることができなかった作品がストリーミングで観ることができるメリットがあります。私が育った時代は、アクセスできない映画のほうが多かった。公開された新作か、シネマテークで上映される古典作品を観られるぐらいでした。小さい頃は田舎に住んでいたのでシネマテークには全然行くことができず、テレビで昔の映画を観ていましたが、画質は最悪でした(笑)。でもそういう風にして映画史を学んでいったのです。
ストリーミングの時代に育つみなさんは、映画史のさまざまな古典を観ることができる。大衆映画もあれば、シネマテークにアーカイブが保存されていないような映画もあります。私自身は映画に近づこうとしたときに方法がひとつしかなかったけれど、いまの人たちは様々な選択肢を与えられているように思います。
今日の映画において、「どのような形態で観るか」、これは大きな変化です。自分と映画の関係がその人個人の責任になってきたといえます。本当の意味で映画と深い関係性を持ちたいと思えば、一番最良の条件で、つまり大きなスクリーンで観たいと思うだろうし、娯楽としてちょっと気晴らしで観ようと思うならスマートフォンで観たって構わない。それぞれの人が映画との関係性を自分の責任を持って全うすればいいんです。
―『冬時間のパリ』では、妻たちは夫が不倫をしていることに勘付いていながらも責め立てる素振りは見せません。唯一不倫していたことをパートナーに告白するレオナール(ヴァンサン・マケーニュ)にいたっては、最後に恩寵が訪れます。
アサイヤス:そう、忠実でなくても罰はありません(笑)。
―むしろ、あなたの提示する世界では、「忠実でないこと」は深刻な罪ではなく、むしろ関係を長続きさせる可能性のある行為のように見えます。
アサイヤス:私はそう思っています(笑)。いまの時代は道徳観に凝り固まり過ぎていると思うので、少し不道徳な作品を作りたかったのです。そういう作品があってもいいですよね。
- 作品情報
-
- 『冬時間のパリ』
-
2019年12月20日(金)からBunkamuraル・シネマほか全国で順次公開
監督・脚本:オリヴィエ・アサイヤス
出演:
ジュリエット・ビノシュ
ギョーム・カネ
ヴァンサン・マケーニュ
クリスタ・テレ
パスカル・グレゴリー
上映時間:107分
配給:トランスフォーマー
- プロフィール
-
- オリヴィエ・アサイヤス
-
1955年1月25日、パリに生まれる。画家・グラフィックデザイナーとしてキャリアをスタートし、フランスの映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」の編集者として文化とテクノロジーのグローバル化への興味を追求しながら、1980〜1985年、自身の短編映画製作を始める。長編初監督作『無秩序』(1986年)がヴェネツィア国際映画祭で国際批評家週間賞を受賞。これまで、世界的な認知をもたらす、豊かで多様な作品を一貫して発表してきた。『夏時間の庭』(2008年)はニューヨークタイムズ紙による「21世紀の映画暫定ベスト25」に選ばれている。また、映画に関するエッセイ、ケネス・アンガーの伝記、イングマール・ベルイマンとの対談を含む数冊の本も出版している。