今回取り上げるのは、ノルウェーでの大量殺人事件を基にした『7月22日』
テロ事件や銃乱射事件がいまも世界中で起きているという話は、読者のあなたも聞いたことがあるかもしれない。1995年の地下鉄サリン事件や2001年のアメリカ同時多発テロによる周囲のざわめきは幼少の記憶に強く残っているし、最近では欧米諸国で無差別の銃乱射事件が頻発しているとワールドニュースで何度か目にした。
日本ではほとんど銃関連の事件は耳にしないが、オウム真理教を生んだ国に一応根差す身だとしても、身の回りで起こるテロ事件を他人ごとにする方がたやすいというのが本音である。語弊を恐れずに言うとすれば、こればかりは当事者にならなくては本当の意味での共感はできない。とはいえ、これまで私がコラムの題材にしてきたような「犯罪者を生み出す社会」だとか「優劣主義の人間のものの考え方」に、絡まないはずがないトピックでもありそうだ。
今回取り上げるのは、2011年7月22日にノルウェーで実際に起きたテロ事件を描いた映画『7月22日』だ。単独襲撃犯がオスロ政府庁舎を爆破後、ノルウェーの湖に浮かぶ島・ウトヤ島に乗り込み、ノルウェー労働党青年部の集会に参加していた青少年に銃で乱射したのだ。犯人は反イスラム・反移民主義を掲げる「テンプル騎士団」の一員と名乗り、欧州からのイスラム教徒の排除と、多文化主義支持者へのアピールを目的としてテロを実行したとされる。
計77人を死亡させたこの大量殺人テロ事件は、ノルウェーやスカンジナビアの移民問題への政治世論を激化させることとなった。
『7月22日』の他にも、実際に起きたテロ事件や銃乱射事件を描いた映画作品は多く存在する。例えば映画『静かなる叫び』は、反フェミニズムを掲げる犯人による、1989年にカナダのモントリオール理工科大学で起きた銃乱射事件を題材にしている。他にも1999年に起きたアメリカのコロンバイン高校銃乱射事件は『エレファント』『ZERO DAY』の元となった。
『7月22日』に対する感想コメントをスクロールしていると、「犯人を絶対に許せない」「犯人にも人権があるのがおかしい」というように加害者の悪を大前提としたリアクションが多く見受けられた。被害者や加害者という当事者よりも、当事者でもない我々が映画を観て「許せない」となる大衆的思考については、『幸せなひとりぼっち』のコラムにも通じるのでそちらもぜひ読んでいただきたい。大量殺人やテロ行為を擁護するわけでは決してないが、今回は銃乱射事件を起こした加害者側の心理も考えていきたい。
「こうあるべき」に振り回され、人を傷つけてしまう
映画の中で犯人が銃乱射中に「お前らは今日死ぬ。マルキスト、自由主義者、エリートどもめ」と罵りながら乱射する場面がある。そのシーンや、前述したさまざまな批判コメントを見て、私は『3面ジャック』という漫画を思い出さずにはいられなかった。
『3面ジャック』は日本のニュース3面ジャックを試みるテロリストを描いたWeb漫画で、過激な暴力描写がたくさん詰まっているのだが、その社会分析や皮肉的思考がとても興味深いのだ。
Chapter13、14では、美醜格付けによって陥る成果主義社会の負のスパイラルについて描かれている。簡単にいえば美しい者ほど得をし、醜い者は損をするという内容で、恋愛観や収入にまで響いている美醜論は、漫画とはいえ現代を鏡写しているようで恐ろしい。
電車や携帯の中で毎日目にする美容脱毛の広告や、雑誌で特集される恋愛や美的価値観は、容姿で優劣を判断する思考を助長しているように思える。マジョリティに属することで安心する集団心理を持つ我々は、社会に出た時点で少なからずこの美醜論的優劣観に振り回されがちである。
私自身も全身医療脱毛と歯科矯正の真っ最中で、この社会の不条理に何度も落胆済みだ。幼少から容姿が整っていたら何百万もかかる歯科矯正をしなくても済むのだが、現代社会において仕事上、どうしても周囲から重要視されるのはツルツルのお肌や髪型や歯並びなのだ。「音楽の中身を聞いてほしい、そのために不要なハンデは早めに解消する。そうすれば本質を見てもらえるはず」――そういう考え方をしてしまう私も、美醜論的優劣観に振り回されているひとりである。
「他人に正義の制裁を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出される」と聞いたことがある。我々がよく目にする街頭インタビューやワイドショーのコメント、ソーシャルメディアで飛び交う「正義論」なども、そうした快楽を求めて生じているのかもしれない。「正義論」が無意識に犯罪者を産んでしまっているかもしれないと以前のコラムでも述べたが、我々は「正義論」から脱却しない限り無意識に人を次々と傷つけ苦しめ続けるのだろう。
もしかしたら、映画の中の犯人もその加害者であり、被害者なのかもしれない。「こうあるべき」という思いと現実のギャップが自らを苦しめ続ける中で、人は多少攻撃的であっても「正しい」方向へ導こうと、犯人のように事件を起こすこともある。『7月22日』に対する批評の中で、攻撃的な言葉を平気で言ってしまえるのも映画の事件や犯人の行動が「正しくない」と思うあまりのことなのではなかろうか。
「我々は皆、理想の自分を演じているのではないか」
「自意識」について恥ずかしながら自分の話を持ち込みたいと思う。私は最近、とにかく絶望する出来事があり、自らの思考を恥じ、容姿を責め、生きている価値もない、と極論を言うほどの墜落をした。これまでは虚勢を張り、正論をうまく言っているように見せてきたものの、本質は自信喪失を繰り返すような人間であることをひた隠しに生きていた。
そういうわけで少なくとも自信をつけようと矯正などに通い、コラムで内面を開示し、とにかく自己愛を持てるようにと躍起になっていたのが本当のところだ。つまり「自意識」に押しつぶされそうになっていたが、それも誰かに「こうありなさい」と示唆されたわけではない。自ら勝手に作りあげた価値観に振り回されていたのである。
脱毛なんかしないでありのままをさらけ出せばいい、というような綺麗な言葉を並べることでコンプレックスをうやむやにしたり、失敗したら被害者感をアピールして承認欲求を満たしたりしていたのだが、化けの皮は剥がれてしまってもう隠すものも無くなってしまった。
「自意識」というものに振り回されていることに気づいたとき、自らを囲い込むための盾を支えていた身体の緊張や心労が、ベリベリと音を立てて剥がれ落ちるのを感じた。幼心から備わっていた原石を覆い隠していた、成長する過程で身に付けた何重にも厚いドレスと化粧を一気に脱ぎ捨てたような気分だったのである。本当に大切なのは、心の奥底にある自らが元々持っていたもので、その全てが個性なのだと悟ったような気がした。そうしたら心がスッと軽くなって、いままでの悩みが馬鹿らしく思えたのだ。「自意識」に縛られるほど、損なことはないのだと。
そういうこともあって、「許せない」という映画批評レビューを目にしたときに少し前の自分を思い出したのである。我々は皆「自意識」が作り上げる理想の自分を演じているのではないかと。
「こうあるべき」が敵意をはらみ、攻撃的なリアクションを起こすことで問題を激化させているのではないだろうかと考える。それは『7月22日』のような人種差別だけでなく、フェミニズムなどさまざまな問題にも共通している気がする。過剰な「自意識」に気づくことができないのは、加害者も被害者も政治家も、そして私たちも、誰でも実は同じなのかもしれない。
連載:AAAMYYYが観るNetflix北欧映画&ドラマ
Netflix好きで知られるミュージシャン・AAAMYYYがNetflixで公開されている北欧映画やドラマから独自の考えを綴るコラム連載。これまで『ぼくのエリ』『ザ・レイン』『ラグナロク』など取り上げた。
- プロフィール
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- AAAMYYY (えいみー)
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長野出身のシンガー・ソングライター / トラックメイカー。キャビンアテンダントをめざしてカナダへ留学、帰国後の22歳より音楽を制作しはじめ、2017年よりAAAMYYYとして活動を開始。2018年6月、Tempalayに正式加入。2019年2月、ソロとしての1stアルバム『BODY』をリリースした。