ピピロッティ・リストが放つ強力なメッセージ
2021年6月20日まで、京都国立近代美術館で『ピピロッティ・リスト あなたの眼はわたしの島』展が開催されている。同展はその後、水戸芸術館現代美術ギャラリーにも巡回する。
ピピロッティ・リスト(以下、親しみをこめて「ピピ」と書く)はスイス出身のアーティストで、映像を主軸にした体感的なインスタレーション、鑑賞体験を作ってきた人だ。
いちばん有名な作品は、街路を軽やかなステップで進む女性が、路上駐車した車の窓ガラスをハンマーで次々と叩き割っていく『永遠は終わった、永遠はあらゆる場所に』(1997年)。この説明だけではずいぶん暴力的な内容を想像するかもしれないが、鮮やかな水色のワンピースと赤い靴をまとい、花の花弁(クニフォフィアというユリ科の植物)を模したハンマーを携え、終始笑みを絶やさない女性の自由さが清々しい。
これに隣接して同時に映されているクニフォフィアのカラフルな映像もあいまって、同作はドリーミー&バイオレンスとでも呼びたくなる不思議な印象をもたらす。
今回の展覧会のために制作されたカタログによると、「自動車に象徴される男性的な文明社会を、野生の花の棒で破壊」する本作は、発表当時「リラックスしたフェミニズム」として称賛されたという。一般常識からすれば現行犯逮捕まちがいなしのパフォーマンスだが、作品内に登場する警官姿の女性は、この破壊行為を目撃しても穏やかに微笑んで通り過ぎる。
「現実にはありえなくても、未来においてはありえるかもしれない」いや、むしろ「ありえてほしい。ありえるべきだ」という勇気を本作は鑑賞者に与える。「想像力は現実社会の規範を凌駕する」というメッセージは、40年弱に及ぶピピの活動全体に通底しているように思う。そして、日本での美術館個展としては13年ぶりとなる『あなたの眼はわたしの島』は、このメッセージを空間全体で体現しているようだった。
安易な理解からあらがい、逃れ、撹乱する作品たち
ロの字のかたちに設計された京都国立近代美術館の3階をメインスペースとする本展は、鑑賞者がぐるりと回遊できる空間になっている。スタート地点にはミラーボールと内蔵されたプロジェクターが夜の庭園のようなイメージを作り出す『眠れる花粉』(2014年)があり、その次には冒頭で紹介した『永遠は終わった、永遠はあらゆる場所に』と『わたしの海をすすって』(1996年)が上映されている。
さらに進むと、ネオン管で文字をかたどった『トラストミー/私を信じて』(2016年)。そしてベッドに仰向けになって天井の映像を見上げる『4階から穏やかさへ向かって』(2016年)が鑑賞者を待ちうけている。
これまでの活動を振り返る回顧展的な内容であるにもかかわらず、過去から現在へと一方通行的に進む時間軸を選ばず、ピピはあらゆる時代の作品を自在にシャッフルし、撹乱する。それによって得られるのは、ピピが経験し作ってきたすべての物事が等価であり、そのどれもがピピという存在を構成するために不可欠であるという肯定の感覚だ。
もしこれが時系列に準拠する展示であったなら、例えば生理や出産を題材とする『血のクリップ』『母の兄が生まれたとき、日に焼けた窓台のそばに立つと山から梨の花の匂いがした』(ともに1992年)は、30歳当時のピピの直情性や制御不能なエネルギーを伝える「若書き」として理解されるかもしれない。
つまり「昔はやんちゃだったけど、いまは立派な大人になった」ビッグアーティストの補足物として、攻撃的だったり狂気じみたりする経験は、(多くの場合、男性的である)批評やキュレーションの言説に穏当に手なづけられ、消費されかねないのだ。
そういった理解や消費に抗うがごとく、ピピは撮影手法や展示方法の工夫によってさまざまな撹乱を引き起こしているように見えた。時系列のシャッフルはその一つだが、被写体を極端にクローズアップ撮影する手法、美術館が所蔵するタカエズ・トシコや十五代吉左衛門の陶磁器をインスタレーションの一部として包含したり、鑑賞者を映像のなかに没入させるようなしつらえを作り、自己と他者の境界を曖昧に溶かしていくのもピピらしい撹乱なのではないだろうか。
すべてが隣り合い、溶け合う。境界を曖昧にする展示空間
今回の『あなたの眼はわたしの島』展からは、こういった撹乱の実験を全面化しようとする印象を受ける。ほぼ最初から最後まで靴を脱いで鑑賞することになる空間は、展覧会であるにもかかわらず、まるでピピの自宅に招かれたようなリラックスした空気に包まれている。その一助になっているのが、デンマークを拠点とする家具メーカー「クヴァドラ」から提供された数々のファブリックだ。
各作品の前に置かれた大小の丸型クッションや、作品『4階から穏やかさへ向かって』に使われたベッド。そしてピピが「サウンド・パサージュ(音の回廊)」と命名した、各作品を隔て動線の役割も果たしているカーテンもクヴァドラが提供したもので、京都国立近代美術館の空間に合わせて縫製したものだ(カーペットは、ピピお気に入りのスイスのメーカーのものらしい)。
実際に座ったり寝そべってみるとわかるが、クヴァドラの布地には特有の凹凸があり、心地よい。プラスチック廃材をリサイクルして得られた質感、サステナビリティーの考え方も、ピピがクヴァドラに共感する理由だという。ちなみに同社はコンテンポラリーアートとの協働に力を入れていて、オラファー・エリアソンや皆川明(ミナ ペルホネン)など数多くのアーティストの作品制作に関わっている。
展覧会には一般的に、「作品のための空間」「鑑賞者のための空間」といった明確なゾーニングがある。国宝や歴史遺物を取り上げる企画ともなれば、作品と鑑賞者のあいだは白線やアクリルガラスで幾重にも隔てるのが通常だ。
だがピピは、それとは正反対の、すべてが隣り合い、溶け合うような関係性のあり方を提案している。鑑賞者がベッドに寝そべって水面を漂う映像を眺める『4階から穏やかさへ向かって』に顕著だが、それは不特定多数の人々が夢を共有し、夢のなかで出会うような経験の実現でもあるだろう。その空間では境界が曖昧に、内にあるものは外へ、外にあるものは内へと嵌入し、侵食しあう。
意外と気づかずに通り過ぎてしまうかもしれないが、じつは美術館の外にも作品がある。『ヒップライト(またはおしりの悟り)』(2011年)がそれで、等間隔でロープに干されているのはなんと使い古された下着だ。これが夜になると照明ライトの代わりになるそうで、私が鑑賞したのは昼間であったが、その様子を想像するだけで微笑ましくなった。
プライベートの範疇にあるパンツやシャツ、しかも使用済みのものが屋外の公共空間に吊るされているときに生じる可笑しさ、恥ずかしさ、驚き。そういった微細な感情の乱れを誘発しつつ、「揺らぐこと」を尊重し、個人と世界をユーモアによって「揺るがすこと」を忘れないピピの精神に触れた気がした(風にたなびくパンツを目にしながら)。
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