涙を生むメロドラマの力は今も残る 映画研究者・河野真理江が語る

単純化された物語に、著しく誇張された演出や芝居。激しい運命に翻弄される主人公。戦前から戦後にかけての日本で、「メロドラマ」と呼ばれる一連の作品が花開いた時代があった。日本においてメロドラマはスタジオシステムの隆盛とともに固有の発展を遂げ、『愛染かつら』『君の名は。』のような後世に知られるヒット作を生み出しながらも、やがてジャンルとしての終焉を迎える。その変遷について解き明かしたのが、映画研究者である河野真理江による『日本の〈メロドラマ〉映画 撮影所時代のジャンルと作品』だ。

今回、表参道にあるボルボのブランドコンセプトストア「ボルボ スタジオ 青山」で河野さんに取材を実施。甘いものを食べながらコーヒーを飲むスウェーデンの習慣、「フィーカ」の時間を楽しみながら、同書が書かれた背景や、批評や研究においてメロドラマがたどってきた道のりとともに、『花束みたいな恋をした』や『あのこは貴族』など、メロドラマ的な想像力のもとつくられた近年の作品について、読み解いてもらった。一度は終わったジャンルであるメロドラマは、現代においてどのように息づき、羽ばたいていているのだろうか。

河野真理江(こうの まりえ)
1986年東京生まれ。映画研究。立教大学現代心理学研究科映像身体学専攻博士課程修了。博士号(映像身体学)取得。現在、立教大学兼任講師、青山学院大学、早稲田大学、東京都立大学、静岡文化芸術大学非常勤講師。2021年4月に著書『日本の〈メロドラマ〉映画 撮影所時代のジャンルと作品』が発売。

「涙を流させる」ことにはものすごいエネルギーがあって、そうした側面を映画研究や映画批評は見過ごしてきた経緯がある。(河野)

―はじめに、「メロドラマ」とはどのような特徴をともなって表現されるものでしょうか?

河野:フィルム・スタディーズにおける一般的な意味では、善悪の二項対立を軸としたさまざまなタイプのジャンル作品を指すことが多いです。それとは別に、日本では1930年代から1960年代にかけて隆興していた固有のジャンルとして「メロドラマ」というものが存在してきました。これはいわゆる「泣ける映画」を指すと言えばわかりやすいかもしれません。

次から次へと主人公に不運が降りかかり、さまざまな災難に見舞われながら、最後は幸福を手に入れる――そうしたタイプの作品が多いです。この日本の「メロドラマ」の中にもいろいろサブジャンルがあって、とりわけ「文芸メロドラマ」と呼ばれるものは、ハッピーエンディングのかたちをとることが少ないという点で少し変わったジャンルです。たとえば、五所平之助の『猟銃』(1961年)は、ほとんどダグラス・サークのファミリー・メロドラマのようなアイロニカルで素晴らしい演出技法がみられる作品です。

―映画研究におけるメロドラマという言葉の定義は非常に複雑化しているそうですね。

河野:映画研究においてメロドラマは現在、「クラスター・コンセプト」、つまり概念の集積と言われています。時代ごとに意味と用法が変遷しすぎていて、研究者が整理しても整理しきれないくらい複雑なんです。だからメロドラマとは、ジャンルでもなければ1つの概念でもなくて、モードであったり、センスであったりする。けれども、あえてジャンルに目を向けると、そのときどきにおいて、メロドラマはいつも固有の特質と特徴を備えていて、そうしたジャンルの集積がメロドラマであると言える。だから、メロドラマは「クラスター・コンセプト」ではなくむしろ「ジャンルのクラスター」だとわたしは考えています。

―河野さんご自身は、小沼勝(映画監督。日活ロマンポルノの代表的な監督として知られる)の作品をきっかけにメロドラマに関心を抱いたそうですね。

河野:大学生のころ日活ロマンポルノにはまっていて、なかでも小沼勝の作品を気に入って集中的に観ていたところ、『昼下りの情事 古都曼陀羅』(1973年)や『生贄夫人』(1974年)、『夢野久作の少女地獄』(1977年)などいくつかの作品を観ている最中に「なんてメロドラマなんだ!」という驚嘆が突如として降ってきたんです。当時の自分がなにを指して「メロドラマだ」と思っていたのか、いまとなっては思い出せませんが、その強烈な直感というのが、じつはメロドラマの本質と関わっているのかもしれないと思っています。

―日本において戦前戦後に発展したジャンルとしてのメロドラマの足跡を辿った本書のなかで、興行的に成功した作品が多くあるにもかかわらず、観客の多くが女性であることや、女性を中心とした物語であることによって、かつてメロドラマは映画研究において注目されてこなかったという事実が興味深かったです。

河野:当時もいまも批評家の多くが男性なので、メロドラマは「オンナコドモのもの」として過小評価されてきたと思います。批評的な関心が払われてこなかったし、好意的にとらえられた場合でも、「男性の視点から見て面白いメロドラマであるか」という尺度でしか見られてこなかった。そのことがメロドラマ研究のハードルになっていた。でも、1970年代後半くらいに女性映画に関する研究がすごく盛り上がったんです。フェミニストたちが映画理論の研究に参入しはじめて、そこには少なからぬ功罪もあったわけですが、彼女たちは男性批評家たちが見過ごしてきたものを確かに見出しました。

―功罪というのは?

河野:メロドラマは当初、健気に耐え忍ぶ、あるいは献身的で犠牲をいとわない女性というステレオタイプを再生産してきたとして、フェミニストたちから批判されることもしばしばありました。けれども、実際にそうした状況に置かれていた女性が多いからこそ、「私だけじゃないんだ」という勇気を女性観客にもたらしていたとも言えるわけです。メロドラマが持つ特質の1つである「涙を流させる」ということにはものすごいエネルギーがあって、そうした人間の情動に関する問題について考えることを怠ってきたと、映画の研究者や批評家たちは1990年代から反省するようになっていったんです。

―たとえば、先ほど河野さんもおっしゃられていた、いわゆる「泣ける映画」と言われる作品群は、芸術性などの観点からは評価し難いものも多いかもしれない。けれどもそうした作品がコンスタントにつくられ、心が動いて涙を流す観客がいるというのは、確かにそこにいま生きている人々の感情の源流のようなものに触れるなにかがあるわけですよね。

河野:メロドラマって、戦争や災害のように、人々が大きな喪失感を味わい、社会に価値転換がもたらされた数年後に爆発的にヒットするケースが多いんです。たとえば『君の名は。』(新海誠監督 / 2016年)における隕石が衝突して街が消えるという場面から、東日本大震災を想起した観客は少なくなかったと思います。あとは難病もの。配偶者や恋人、肉親を失くすという誰もが味わう、つらい経験をメロドラマ的な神話に仕立てたジャンル映画は、常に関心が高いと言えますね。

河野さんの著書『日本の〈メロドラマ〉映画 撮影所時代のジャンルと作品』書影

―メロドラマとステレオタイプな女性像という話に戻ると、本書のなかでは、『新道』(五所平之助監督 / 1936年)を例に引いて、不幸に耐える犠牲者としての女性だけでなく、ステレオタイプから逸脱した女性の姿も一部のメロドラマ作品においては描かれていたと書かれていましたね。

河野:『新道』のヒロインは、いま見てもけっこう転覆的で大胆なんですよ。『新道』の監督やプロデューサーは男性ですが、原作者の菊池寛には女性の代筆者がいて、『新道』についても彼女が書いたものであるという説もあるんです。女性が書いたフェミニズム的な文学というのは当時からあって、そうした小説がメロドラマの原作として採用されることで、結果として「女性のための映画」という意味合いを強くしていたと思います。だから、「メロドラマ」はかわいそうで健気なヒロインという女性ステレオタイプを再生産する一方で、ステレオタイプに対抗する力もあった。その拮抗が日本の「メロドラマ」の特質の1つだと思っています。

メロドラマ研究者から見た、近年の日本映画

―そのような盛り上がりがあった一方で、日本においてジャンルとしての「メロドラマ」の勢いはいったん収束していきます。

河野:大学で講義をすると、最近の学生のほとんどが、「メロドラマ」という言葉自体を知らないと言います。ある程度以上の年代の人はメロドラマという言葉は知っているけれど、そこで思い浮かべているのは昼メロや、山口百恵の「赤いシリーズ」(TBSが大映テレビと共同で1974年から1980年にかけて製作したドラマシリーズ)だと思うんです。でも、それよりも前に「メロドラマ」の黄金期が日本にはあって、「メロドラマ」と言えば、ある種の映画を指すことを誰もが理解できた時代があった。研究者はそのことを知っているにもかかわらず、フィルム・スタディーズにおけるメロドラマの概念と日本における固有のジャンルとしての「メロドラマ」の関係とをこれまできちんと整理してきませんでした。じゃあ、このダブルミーニングを解決しようじゃないかと。私がこの本で試みたことはそうしたことです。

―そのように現在の若い世代においてはほとんど死語になった。けれども「泣ける映画」のように、いまの映画のなかにもメロドラマ的な想像力が息づいている作品がありますね。そうした観点から、近年話題になった作品について、河野さんがどのようにご覧になられたかも伺っていきたいと思います。いくつか編集部からお題が出ているのですが、まず『花束みたいな恋をした』(土井裕泰監督 / 2021年)について。

河野:主役の2人の関係が表面的だと感じました。口に上るサブカルチャーの固有名詞が彼らを結びつけているけれど、具体的にどこがよかったという話はしなくて、タイトルだけを並べ連ねている。たとえば『モテキ』(大根仁 / 2011年)ではそうしたサブカルチャー作品について、主人公がどう思っているかがきちんと彼のモノローグで吐露されていましたよね。だから彼らがなんで結びついていたかというと、結局表面的な趣味でしかなかった。「そういうありふれた恋愛をみんなしてるんじゃない?」ということであるのなら、それに気づかず涙する観客を挑発するような映画なのかもしれないと思いました。

―あるカルチャーを好きだということによって結びついた二人であることが、恋愛初期の「特別な関係」という意識を強くしている一方で、描かれるのはありふれた恋愛の顛末で、そういう意味ではけっこうアイロニカルな映画なんですよね。

河野:あるいは、絹ちゃん(有村架純)が圧迫面接を受けていたということを、麦くん(菅田将暉)のモノローグで語っていて。彼は現場を見ていないのに、なぜ麦くんのモノローグで、彼女が圧迫面接を受けていたと言っていたのか。シナリオはあえてそうしているんでしょうけれど、その辺のすれ違いも気になりました。もしかしたら脚本家の坂元裕二は「泣ける映画」で涙を流す観客に対して、「アンチ・メロドラマ」に挑戦しているのかなとも思いましたね。一方で最近ですと『あのこは貴族』(岨手由貴子監督 / 2021年)はとても面白かったです。

―どんなふうにご覧になられましたか?

河野:冒頭でもお話したように、メロドラマは複雑な問題を、単純化した二項対立で描くことが特徴で、なかでも「階級」の問題が取り扱われやすいんです。これまで階級の問題というのは日本では『万引き家族』(是枝裕和監督 / 2018年)のように極端なかたちで描かれることが多かった。一方、『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ監督 / 2019年)は上流階級と下層階級の問題を扱いながらも「下には下がいる」ということを描き出していた。『あのこは貴族』はいわばこの逆バージョンで、「上には上がいる」という話ですよね。極端な貧困層と富裕層だけがいるのではなく、そのなかにも「不可視の階級」というものがじつはある。そうした階級の問題をあれだけ鋭くかつ清々しく描くのは、なかなかできることじゃないと思いました。

成瀬自身は「僕にはメロドラマは手に負えない」という趣旨の発言をしていますが、私は『あのこは貴族』を成瀬巳喜男の『女人哀愁』(1937年)の現代版だと思いました。たしかに「メロドラマ」という言葉は日本では死語になってしまったかもしれない。けれども、映画監督たちは過去の「メロドラマ」やフィルム・スタディーズにおけるメロドラマの概念についてよく研究しているので、岨手監督が『女人哀愁』を見ているかはわからないですが、それでもいまに至るまで脈々と引き継がれているものがあるんだと思います。

―清々しいというのがまさにそうですね。異なる環境に生まれ育った女性たちを描きながらも安易に対立させないし、お互いの世界を垣間見て気づきを得たりはするけれど、特別仲良くなったりもしない。

河野:相反する立場に置かれているものの、彼女たちはきちんと対話をするじゃないですか。そこが面白いですよね。それに地方の雰囲気をリアルに描くことをさらりとやってのけるのもなかなかの手腕だと思いました。都会では見かけなくなったヤンキー文化みたいなものの描き方も、くどくどしていなくてよかったです。

あと最近の「泣ける映画」と言えば『ミッドナイトスワン』(内田英治監督 / 2020年)がありますね。バレエのシーンがよかったですが、一果(服部樹咲)の友達の、途中でバレエを挫折してしまう少女(上野鈴華)が、一果と同じくらい魅力的に描かれているともっと面白くなったのではないかと思いました。

また、最後にトランスジェンダーの主人公、凪沙(草彅剛)が性別適合手術に失敗して亡くなったというちょっと非現実的なラストシーンがありましたけれど、彼女がなぜ死んでしまわなければならないのかわかりません。

―性的マイノリティーが、「悲劇」の題材として扱われがちな傾向がある点も気になります。

河野:かつてフィクションのなかで「女性」が負っていた「悲劇のヒロイン」という役割を、性的マイノリティーが担わされるようになってきているのだと思います。性的マイノリティーが登場する作品は、真摯に向き合おうとしているものと、そうしようとしながらも結局悲劇の主人公に仕立ててしまうパターンがありますね。そしてさらに『窮鼠はチーズの夢を見る』(行定勲監督 / 2020年)のように、「BL」という異なるジャンル・カテゴリーに属する作品も生まれています。

メロドラマはあいみょんの曲に似ている? 映画以外のジャンルにも見られる「メロ」の要素

―そして昨今公開されたメロドラマ作品と言えば、『スパイの妻』(黒沢清監督 / 2020年)があります。

河野:女性を悲劇のヒロインとして仕立てた、ある意味古典的なメロドラマですよね。黒沢清は『岸辺の旅』(2015年)以降の作品において、メロドラマに関心を寄せるようになっていて、いわゆる「泣ける映画」とは違うメロドラマを描こうとしています。なにせ『岸辺の旅』も『スパイの妻』も泣くに泣けないじゃないですか(笑)。

―それはそうですね(笑)。

河野:『スパイの妻』で、なぜあそこまで蒼井優演じるヒロインが追い詰められなければならないのか。いまこの時代に、あの作品が誰に向けて撮られているのかを考えたときに、わかる人にはわかるという、私も含むシネフィルが対象とされているとしても、女性としての私は含まれていないように思います。その意味でジェームズ・グレイの『エヴァの告白』(2013年)に似ていると思いました。たとえばあれを私の母親が見て楽しめるかというと、楽しめないと思います。

現在、日本の女性はメロドラマに飢えているんじゃないでしょうか。だからこそ『愛の不時着』のような韓国のシリーズに惹かれるのかもしれないし、少女たちは「泣ける映画」のような恋に憧れたり、チーズの夢を見たりしているのかもしれないですね(笑)。

―『愛の不時着』や『冬のソナタ』など、韓国では脈々とメロドラマ作品の系譜がありますね。

河野:驚くべきことに、韓国では「メロドラマ」という言葉はまだ死語になっていないんです。「メロヨンファ」と言って「メロ映画」という意味なんですけど、おそらく日本の統治時代に韓国へ「メロドラマ」が入っていって、いまでも「メロドラマ」という言葉が生きている。

―日本と違い、韓国ではなぜ「メロドラマ」が生き残ったのでしょう?

河野:やはり葛藤の時代が長いからだと思います。北朝鮮との関係はもちろん、ソウルのど真ん中にアメリカの基地があって、アメリカナイズされたものと韓国の伝統が共存せざるを得ないことなど、メロドラマが生まれやすい土壌があると思います。

―『愛の不時着』はまさにそのような背景のもと、生まれたメロドラマでした。

河野:日本の製作者たちもメロドラマという言葉を知らないわけじゃないから、これから日本でも新しいかたちでメロドラマが生まれてくる可能性があると思うんです。もしかしたらそれは、映画以外のサブカルチャーから現れてくるかもしれない。そういえば学生の反応で面白いなと思ったのが、講義でメロドラマについて説明したら、「あいみょんの曲に似ている」と言ってきた子がいました。

河野さんには、甘いものとコーヒーを味わう「フィーカ」を体験してもらった。スウェーデンの国民的スイーツ「セムラ」をアレンジした季節限定商品「さくらセムラ」とコーヒーのセット
※さくらセムラの提供は終了。季節によって商品内容が変更される。

―面白い感想ですね。いまふと思ったのは、メロドラマが生む情動と、昨今「エモい」と言われる感覚は近しいものがあるのかもしれません。

河野:メロドラマって、昔の日本では「メロ」とも略されていたんですよ。「メロドラマ的」ということを指して、「メロじゃない」とか「メロだ」と言っていた。それをいまの若者は「エモい」と言ったりしているのかもしれないですよね。

―言葉の使われ方としてもどことなく似通ったものがありますね。

河野:メロドラマは、もともとギリシャ語の音楽(melos)と劇(drama)が組み合わさって生まれた言葉なんです。あいみょんの曲もそうだけど、物語性を持った音楽ってありますよね。それはメロドラマじゃなく「ドラマメロディー」とでも呼ぶべきなのかもしれませんが、メロドラマは、音楽とか漫画とかアニメとか、あらゆることに汎用化できるので、映画以外のサブカルチャーのなかで、メロドラマがどのように継承されているかも見ていくと面白いと思います。

書籍情報
『日本の〈メロドラマ〉映画 撮影所時代のジャンルと作品』

発売日:2021年3月3日(水)
著書:河野真理江
価格:4,180円(税込)
出版:森話社

プロフィール
河野真理江 (こうの まりえ)

1986年東京生まれ。映画研究。立教大学現代心理学研究科映像身体学専攻博士課程修了。博士号(映像身体学)取得。現在、立教大学兼任講師、青山学院大学、早稲田大学、東京都立大学、静岡文化芸術大学非常勤講師。近著に、「渋谷実の異常な女性映画──または彼は如何にして慣例に従うのを止めて『母と子』を撮ったか」(『渋谷実 巨匠にして異端』志村三代子、角尾宣信編、水声社、2020年)、論文に「「メロドラマ」映画前史──日本におけるメロドラマ概念の伝来、受容、固有化」(『映像学』第104号、2020年)などがある。



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スウェーデンの人々が大切にしている「Fika」というコーヒーブレイクの時間のようにリラックスしながら、さまざまなアイデアが生まれる場所をめざします。

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