深刻さ増すDV問題。『サンドラの小さな家』が発する声なき者の声

女性の就労率が高く、子育て支援制度が充実しているといわれる北欧の国々。「世界幸福度調査」で常に上位を占める北欧諸国でも、女性に対する暴力や、近しい関係の相手から受ける暴力は社会的な問題になっている。人々を家に閉じ込めたコロナ禍において、逃げ場のない家庭内暴力の問題はますます深刻さを増す。

そんな女性の家庭内暴力被害の問題を扱った映画『サンドラの小さな家』が4月から日本公開されている。夫からのDV被害から逃げて住む家を失い、公営住宅にも入れず苦境に立たされる女性、サンドラ。彼女は周囲の人々の助けを借りながら、娘たちと住む家をセルフビルドで建てようと決意する──。アイルランド・ダブリンを舞台に、家庭内暴力やシングルマザーの貧困、不十分な公助のシステムの問題を指摘し、そのような状況下でも希望の光となり得る共同体のあり方を描く。世界的にも緊急度の高い問題を女性の視点から描いた本作が照射するものとはなにか? 映画評論家の常川拓也が綴る。

コロナ禍で世界的に深刻度を増す家庭内暴力の問題。「影のパンデミック」とも

コロナ禍でロックダウンや外出自粛要請が敷かれた結果として、世界的に家庭内暴力が拡大していると報告されている。在宅時間の急増、就職難や減収などによるストレスが要因とされ、密室で行われる暴力と搾取の蔓延を国連女性機関(UN Women)は「影のパンデミック」だと問題視した。日本でも2020年度のDV相談件数は過去最多となり、世界各国でDVの報告件数と緊急シェルターの需要の増加が認められている。

デンマークの機会均等担当大臣で、北欧ジェンダー平等閣僚理事会の議長を務めるモーゲンス・イェンセンは、「COVID-19の危機は、特に家庭内暴力に直面している人々にとっては深刻だ。外部の者が(閉ざされたドアの中で)何が起こっているか状況を把握することも被害者が家を出て助けを求めることも困難な場合が多い」と指摘。北欧諸国は、コロナ禍の女性に対する暴力の増加に伴って、臨時に女性用シェルターを拡充し、新たに電子メールで警察に通報できる方法を導入するなどの対応を取った。

『サンドラの小さな家』は、DVに苦しむ女性に光を当て、声なき者に声を与える。パンデミック前に制作された映画ではあるが、奇しくもその問題がさらに深刻になったいま、この映画の気概はより重要な意味を持つだろう。

『サンドラの小さな家』 ©Element Pictures, Herself Film Productions, Fís Eireann/Screen Ireland, British Broadcasting Corporation, The British Film Institute 2020

主演クレア・ダンを脚本執筆に駆り立てた、女友達の話と、アイルランド社会の実情

小さな女の子が小さな家の形をしたおもちゃ箱を抱えてコンビニに駆け込んでくる。その中には警察へのSOSのメッセージがしたためられていた。サンドラ(クレア・ダン)は夫ガリー(イアン・ロイド・アンダーソン)から激しい暴力を振るわれる直前、娘に助けを求める秘密の暗号「ブラック・ウィドウ」を発令していたのだ。小さなヒーローと小さな家によって、彼女の命が救われるところからこの映画は始まる。

その後、左手の負傷とPTSDに悩まされるサンドラは幼い娘ふたりを連れて小さなホテルの一室での仮住まいを余儀なくされる。清掃人やパブの仕事を掛け持ちしながら、公営住宅の順番を待つ日々が続くが、いつまで経っても事態は進展しない。融通の効かない公務員たちの対応に直面した彼女は、自分で家を建てることを決意する。このように生活困窮者に対する公的支援や給付制度の欠如、煩雑な手続きばかりで困っている庶民を置き去りにした官僚主義への批判は、『わたしは、ダニエル・ブレイク』『家族を想うとき』のイギリスの名匠ケン・ローチを彷彿とさせる(参考記事:ケン・ローチ『家族を想うとき』が見つめる、「搾取」で回る世界)。

『サンドラの小さな家』 ©Element Pictures, Herself Film Productions, Fís Eireann/Screen Ireland, British Broadcasting Corporation, The British Film Institute 2020

スウェーデンのポップグループABBAのヒット曲で構成したミュージカル『マンマ・ミーア!』、あるいは労働者階級を圧政し自助努力を掲げた為政者を描いた『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を手がけた監督フィリダ・ロイドが、まさかこのような現実の労働者階級の社会問題を取り上げた映画を作るとはおそらく誰も予期しなかっただろう。ケン・ローチほどリアリズムの演出は厳格ではないものの、建築の過程をポップソングを用いて軽やかにモンタージュする手腕はロイドならではである。

『サンドラの小さな家』 ©Element Pictures, Herself Film Productions, Fís Eireann/Screen Ireland, British Broadcasting Corporation, The British Film Institute 2020

この映画の精神は、やはり脚本も執筆した主演クレア・ダンにあるのだろう。3人の子どもを連れてホームレス状態になってしまった女友達の話を機に、アイルランドの住宅問題への危機意識や、延々と書類処理や行列に並ぶだけで進まない制度に怒りを抱いた彼女は、ひとりの女性がシステムから抜け出してDIYで家を作るアイデアを思いついたのだという。英国の『フリーバッグ』のフィービー・ウォーラー=ブリッジをはじめ、世界的に脚本を手がけた女優自らが主演を担う動きは近年活発化しているが、特に脚本家経験がない女優が必要に駆られて書き始めたという意味では、2020年の米国映画『Saint Frances(原題)』のケリー・オサリバンと通じるような同時代性も持つだろう。

『サンドラの小さな家』 ©Element Pictures, Herself Film Productions, Fís Eireann/Screen Ireland, British Broadcasting Corporation, The British Film Institute 2020

あるいは、ロイドが演出し、ダンが出演した演劇──女性刑務所を舞台にした女性だけのシェイクスピア3部作を通して、DVから命からがら逃れた女性たちが刑務所に多くいる事実を知り、その当人たちと関わった経験が本作には反映されている。今回はスタッフの男女構成比が均等になるよう企図されているが、ロイドは実は、一貫して映画や舞台で女性を主体にした物語や制作体制、様々な女性を表出させてきたのである。

主演のクレア・ダンとフィリダ・ロイド監督 ©Element Pictures, Herself Film Productions, Fís Eireann/Screen Ireland, British Broadcasting Corporation, The British Film Institute 2020

人種や社会的立場、障害の有無もさまざま。多彩なメンバーがサンドラの家づくりに集う

掃除職の雇い主ペギー(ハリエット・ウォルター)の善意により、サンドラは彼女の家の裏庭を借りて、家作りに取り掛かる。といっても、土地や木材や道具があっても家は作れない。多くの人の助けがなくてはならないだろう。サンドラにとって、これは思いがけない光明をもたらす。

ホームセンターで偶然出会ったことを機に彼女のために設計図から全面的に手伝う土木建設業者のエイド(コンリース・ヒル)をはじめ、彼のダウン症の息子フランシス、サンドラの唯一のママ友・ローザ、パブの同僚で建物を不法占拠して暮らすエイミーと彼女の同居人たち──カメルーン出身のユワンデ、宅配業のダリウシュ、無職のトモ──など、多彩なメンバーがそれぞれの社会的な事情を抱えながらも週末の時間を割いて家作りに無償で協力するのである。

『サンドラの小さな家』 ©Element Pictures, Herself Film Productions, Fís Eireann/Screen Ireland, British Broadcasting Corporation, The British Film Institute 2020

その中でもフランシスは一度はサンドラの頼みを断りかけた父エイドの態度を改めさせ、自分が使っていた古い作業靴を彼女に提供する寛大な紳士として登場する。彼のキャラクターについてダウン症であることに焦点を当てていない点も重要である。善良な男性も多々登場するように、夫からのDVを主題にしながらも、決してミサンドリー(男性嫌悪)に基づいているわけではないだろう。

公助のない世界で、ゆるやかに育まれる共同体

本作は「herself」という原題を持つが、このようにして家を建てるという行動が、DVで崩れかけていた「彼女自身」を建て直す手段のメタファーとして機能すると同時に、ゆるやかな共同体を育む契機となるのだ(アイルランド英語で「herself」は家の主の意味も持つ)。公助のない世界で共助の力、人々が集まって助け合うアイルランド古来の精神「メハル」を称えるのである。気さくで友愛的な彼らとの交流が映画に軽さを吹き込み、とりわけ娘を演じたルビー・ローズ・オハラとモリー・マッカンの輝きが憂鬱になりがちな題材に光を差し続けている。

『サンドラの小さな家』 ©Element Pictures, Herself Film Productions, Fís Eireann/Screen Ireland, British Broadcasting Corporation, The British Film Institute 2020

このサンドラと周りの人々の姿は、例えば、福岡県八女市福島地区で歴史的な町並みを保存・継承する運動を記録したドキュメンタリー『まちや紳士録』(2013年)の一場面を思い起こさせる。それは、ベテラン大工が新たに越してきた若い移住者に「うんと迷惑かけてください」と助言する場面である。この「迷惑をみんなで共有する」という考え方が、効率を優先する経済至上主義や小さな政府を標榜する新自由主義で回る不誠実の時代に、コミュニティーのあり方として意義あるものとなりうるかもしれない。

『サンドラの小さな家』 ©Element Pictures, Herself Film Productions, Fís Eireann/Screen Ireland, British Broadcasting Corporation, The British Film Institute 2020

社会が被害者に冷たく投げかける。「なぜもっと早く家を出なかった?」という問いの暴力性

一方で、本作は、DVの問題を大局的な観点からも見る。夫ガリーは子どもを盾にサンドラの経済力や保護者としての資質を非難し、自分が被害者であるかのように振る舞って面会権の侵害を訴える。実際は、DVの現場を目撃してしまった次女のトラウマが影響しているにも関わらず、裁判では彼の弁護士とともに彼女を信用できない悪いお手本として仕立て上げてようとするのだ。このように支配的なパートナーが、被害者に自分自身を疑問視させるよう仕向ける心理的な虐待および操作は、「ガスライティング」(ジョージ・キューカーの1944年の映画『ガス燈』に由来する)と呼ばれる行為である。そしてサンドラは、裁判官からこう問われる──「なぜもっと早く家を出なかった?」

この弁護士も裁判官も女性ではあるが、長きにわたって家父長制の下で社会化された司法そのものが、性差別的なイデオロギーの上に成り立っていることをサンドラはこのときに思い知る。

これは現実の問題である。英国の歌手FKAツイッグスは、2020年12月に元恋人のハリウッド俳優シャイア・ラブーフからの虐待と性的暴行を提訴した。2019年公開の彼の半自伝的映画『ハニーボーイ』での共演を機に交際を始めた彼女は、それから約1年の交際期間中に受けたとされる数々の抑圧──ウェイターに親切にすることも許されず、1日にしなければならないキスのノルマを課せられ、それが満たせないと「史上最悪の人間」のように感じさせられたと証言している。また、米CBSの朝のテレビ番組『CBSディス・モーニング』に出演した際には、司会者ガイル・キングから「なぜ彼の元から逃げ出さなかったのか?」と尋ねられた。サンドラもツイッグスも同様の答えを返す──「その質問は加害者にするべき」だと。

『サンドラの小さな家』 ©Element Pictures, Herself Film Productions, Fís Eireann/Screen Ireland, British Broadcasting Corporation, The British Film Institute 2020

社会は、決して加害者に「なぜあなたは虐待するのをやめられないのか?」とは問わない。あたかも女性が加害者から離れずに暮らしていたならば、家庭内暴力の責任の一端は女性にもある、という考えに加担しているかのようだ。『サンドラの小さな家』は、サバイバーが虐待関係から抜け出した後にも冷遇される世界のシステムのあり方を垣間見せる。暴力は、「家庭内」の後も続く。構造的不平等は依然として存在し、そこにはより大きな家父長的暴力が横たわっているのである。

家庭内暴力の被害者を社会的スティグマ化しない

ダンは2014年から脚本のリサーチのために様々な専門家に会う中で、実際にDVサバイバーであるウーマンズ・エイド(アイルランドのDV対策機関)のチャリティショップの店員から単なる被害者の物語にしてほしくないと提言されたと明かしている。『サンドラの小さな家』は、家庭内暴力の被害者を社会的スティグマ化しない。その上で、クレア・ダンはサンドラを演じるために、おそらく彼女にしかできない特性を加えている。

映画の冒頭、サンドラの顔にある母斑を不思議に思った娘たちに対して、彼女は「生まれたときに神様がお創りになった特別な印」だと説明する。ダンはそれを豊かな感情の一部として、あるいは彼女固有の歴史を滲ませる具体性として、劇中で巧妙に機能させているように見える。サンドラは、夫に会うたびに過去の虐待の記憶に襲われ、映画はそれをしばしば苛烈なフラッシュバックで殊更に何度も強調する。負傷した左手を抱えながら神経をすり減らし、子どもたちを庇うために常に警戒心を保つ彼女の疲労、そして身体的および精神的に抱える後遺症を否応なく認識させ続けることで、この顔の特徴はまた別の意味を帯びるかもしれない。

『サンドラの小さな家』 ©Element Pictures, Herself Film Productions, Fís Eireann/Screen Ireland, British Broadcasting Corporation, The British Film Institute 2020

映画が進むにつれ、彼女の背景に触れる私たち観客は暴力の被害の大きさを想像するだろう。ダンの生まれ持った左目の下の母斑はまるで虐待で受けた「アザ」のようにも見える。そして、その跡を覆い隠すべき恥部にはしない──夫と相対する裁判前にサンドラはアザを一度コンシーラーで隠そうとするが、後にペギーはそれを拭き取ってやり、恥ずかしがる必要はないことを示す。友人たちの温かい手助けを得たとき、むしろそれは加害者と結託する父権制社会への抵抗と挑戦の象徴のコードとなるのである。この映画は、支配的な社会秩序によって無言化させられてしまった者たちの声を携えている。

『サンドラの小さな家』予告編

作品情報
『サンドラの小さな家』

新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにて全国公開中

監督:フィリダ・ロイド
脚本:クレア・ダン、マルコム・キャンベル
出演:
クレア・ダン
ハリエット・ウォルター
コンリース・ヒル
配給:ロングライド



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「幸福度が高い」と言われる北欧の国々。その文化の土台にあるのが「クラフトマンシップ」と「最先端」です。

湖や森に囲まれた、豊かな自然と共生する考え方。長い冬を楽しく過ごすための、手仕事の工夫。

かと思えば、ITをはじめとした最先端の技術開発や福祉の充実をめざした、先進的な発想。

カルチャーマガジン「Fika(フィーカ)」は、北欧からこれからの幸せな社会のヒントを見つけていきます。

スウェーデンの人々が大切にしている「Fika」というコーヒーブレイクの時間のようにリラックスしながら、さまざまなアイデアが生まれる場所をめざします。

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