近未来のデンマークを舞台に、テロや移民といったシリアスな題材を用い、緊張感溢れる政治サスペンスとして描き出した話題作『デンマークの息子』(2019年、デンマーク、監督:ウラー・サリム)が、2月12日からヒューマントラストシネマ渋谷などで公開される。
本作は、単に人種差別やヘイトクライム(憎悪犯罪)を取り扱ったものではない。欧州の移民政策の末路について「リアリティ満点の地獄絵図」として描いてみせた実に冷徹な映画なのである。それゆえ、登場人物に分かりやすい悪人は見い出しづらく、正義と正義の衝突のごとき様相を呈してゆくのだ。物語を解くキーワードは「尊厳をめぐる闘争」である。
※本記事は映画本編の内容に関する記述を含みます。あらかじめご了承下さい。
極右政党と移民の闘争。現代にもはびこる設定だが、物語は単なる「善悪の対立」ではない
2025年のデンマークの首都コペンハーゲン――23人の犠牲者を出した爆弾テロからちょうど1年が経ち、極右政党の「国民運動党」への支持が急上昇していた。党首のマーティン・ノーデル(ラスムス・ビョーグ)は、「移民を根こそぎ追放する」と公言して憚らない。ノーデルを信奉する極右の過激派組織「デンマークの息子」は、移民や難民に対するヘイトクライムを積極的に展開し、他方、移民たちで構成される反極右の過激派組織も暴力で応じるようになっていた。
アラブ系のザカリア(モハメド・イスマイル・モハメド)は、自分たちの地区に「デンマークは民族浄化せよ」「出て行け 死ね」という落書きとともに、切断された豚の頭部が置かれた事件をきっかけに、反極右の過激派組織に進んで参加することになった青年だ。リーダーから気に入られたザカリアは、ノーデルの暗殺を命じられることになるが、思いもよらない事件が待ち受けることになる……。物語自体は、骨太なサスペンスであり、社会派のエンターテイメントとして、十分楽しむことができる良作だが、その背景にある重大な問題を踏まえていないと、善と悪の対立軸でしか捉えられなくなってしまう。
人権を尊重する移民政策の悲劇。監督ウラー・サリムの未来予測
本作の隠れた主人公は、欧州の移民政策である。
ジャーナリストのダグラス・マレーは、『西洋の自死 移民・アイデンティティ・イスラム』(町田敦夫訳、東洋経済新報社)で、自国の社会・文化の許容範囲を超える野放図な移民の受入れが、国民の強い不安と反発を呼んでいる実態を軽視して推し進められている事実を指摘した。これには、西欧諸国による植民地支配から労働力確保のための移民政策までの歴史的な経緯と、啓蒙思想の貫徹に固執する理念優先の政治的な事情があるという。経済原理とイデオロギーだ。どちらも根が深く、一朝一夕には変えられない。そのため、国民が移民を心情として受け入れ、移民がとけ込めるようになるまでには長い時間がかかり、かつ限度があるという現場の実情を顧みることなく、大量の移民の受入れを行なってしまうのである。最もしわ寄せが及ぶのは、一般の国民と当事者の移民である。
換言すれば西欧諸国は、受入れ能力を大幅に超過する大量の移民によって、国民(移民を含む)がどのような変化を強いられるのか、という壮大な社会実験の場となっており、多数の悲劇が生まれることが運命付けられているのだ。人権を尊重する理念が大切であることは言うまでもないが、無理に無理を重ねればその理念の基盤は、疲労骨折のような形で破壊され、社会そのものが機能不全に陥る可能性がある。監督のウラー・サリムは、その未来予測として毒のあるフィクションを制作したことは想像に難くない。
それぞれの正義。テロリズムと移民排斥の青写真
ザカリアは、リーダーから「豚の次は我々の血が流される。思い知らせるのだ。我々の値打ちを。我々が存在することを」と告げられる。まるでその怒りに鼓舞されたかのように、仲間には暗殺の論理について「100万のイラク人が殺され、シリアで何人死のうが皆お構いなし。だがここで1人死ねば世界が騒ぐ」などと主張し始める。テロリズムによって、自分たちの不当な地位を告発し、汚名をそそごうとするわけだ。ここには、まともな人間として扱われない境遇に対する正義の遂行がある。
一方、ノーデルは、「すべて公益のため。私はこの国を救いたいのだ」と述べ、移民出身の捜査官に「悪く思うな。君は奴らと違う。標的ではない」と弁明している通り、行き過ぎた移民政策にブレーキを掛けることが最善だと固く信じている。古き良きデンマークを復活させることが正義の遂行というわけだ。とはいえ、すでに獲得された市民権を移民から剥奪することは、既存の社会や経済が移民を前提に回っている限り、非現実的な戯言(たわごと)でしかない(グローバルエリートを逮捕してもグローバル化を食い止めることはできないことと同じだ)。移民排斥を企てる青写真は、ザカリアのテロリズムと同様、一般国民をも巻き込む新たな混乱の種子になるだけである。
それぞれの正義とは、「尊厳の回復」。しかしどちらも、システムの上で踊らされているだけ
ザカリアもノーデルも、それぞれの立場から正当化を試みる。しかしこの正しさは、マクロレベルでは大きな障害となる。2人はいずれも巨大なシステム上の不具合を放置したままで、自己の尊厳の回復を図ろうとする「尊厳をめぐる闘争」の只中にいるのである。ノーデルは「移民を視界から一掃すること」で尊厳を守ろうとし、ザカリアは「極右を視界から一掃すること」で尊厳を守ろうとする。どちらも現実逃避である。悪夢のような壮大な社会実験から抜け出すことができないにもかかわらず、気に食わない連中を排除すればゲームを有利に進められると早合点しているに過ぎない。まさにザカリアが体験している不条理は、ノーデルが体験している不条理でもあるのだ。
もはや誰にもシステムの暴走を止めることができず、後ろ飛びすることも叶わない場合、最優先されるべきは「自己の尊厳の回復」となる。どこの社会であっても自分たちの地位が不安定になれば、感情的な安全を確保することに血眼になるだろう。
「多様性」がアイデンティティを侵食する欧州。イデオロギーの矛盾
けれども、不安定化の原因が自身のアイデンティティやイデオロギーに基づくものであったとしたらどうなるのか。
ダグラス・マレーは、欧州の行く末について悲観的だ。
過去においては、欧州のアイデンティティは極めて限定された、哲学的にも歴史的にも厚みを持った基盤(法の支配や、この大陸の歴史と哲学に由来する倫理)に帰すことができた。ところが今日の欧州の倫理と信念(事実上の欧州のアイデンティティとイデオロギー)においては、「敬意」と「寛容」と(何よりも自己否定的なことに)「多様性」が重視されている。そのような浅薄な自己定義でもあと数年はやっていけるかもしれないが、社会が長く命脈を保つために不可欠な深い忠誠心を呼び起こすことはとても望めないだろう。(前掲書)
つまり、移民の受入先である欧州のアイデンティティは、むしろ自身のアイデンティティを侵食する方向に作用しており、持続可能性の観点から危機的状況にあるというわけだ。
仮に、マレーの言う通り「社会が長く命脈を保つために不可欠な深い忠誠心」がなくなった場合、当然ながら移民の人々もその悪影響をこうむらざるを得ない。要は、誰もよそ者に関心を持たない殺伐とした社会である。恐らく認識されるのは、脅威の対象としてだけであり、コミュニティの自衛が重要視されるようになり、多くの人々は要塞のような住居に引っ込んで、ビッグ・テックが提供するガジェットで、おのおのの欲望を追求することになる。トラブルはすべて警察と裁判所に持ち込まれ、それ以外は犯罪組織やアウトローが処理するだろう。多かれ少なかれもうそのような状況になっている。
現代を生きるわたしたちに突き付けられた問い
これは、わたしたちにとっても無関係な話ではない。アイデンティティが拡散すれば、社会の統合は困難になり、協調への動機付けも枯渇するからである。最悪なのは、「自己の尊厳」の手当てだけで精一杯の人々がマジョリティになることだ。そうなると、社会全体への奉仕といった感覚は消え失せ、隣人への不満と嫉妬ばかりが蔓延することになるだろう。わたしたちの社会もそのような奈落に向かって今、放物線を描きながら下降している真っ最中である。
果たして、現実を否認しようとする2つの道――ザカリアとノーデル――を回避する第三の道はあるのか。こんな問いがわたしたちに突き付けられているのである。
- イベント情報
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- 『未体験ゾーンの映画たち2021』
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2021年1月22日(金)~2021年4月1日(木)
場所:ヒューマントラストシネマ渋谷ほか開催
- 作品情報
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- 『デンマークの息子』
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2021年2月12日(金)からヒューマントラストシネマほか公開
監督・脚本:ウラー・サリム
出演:
ザキ・ユーセフ
モハメド・イスマイル・モハメド
ラスムス・ビョーグ
自主規制:PG12相当