アートブック『スウェーデン/Sverige』(2018年)より / 撮影:田附勝
心情、経済状況……生活をとりまく全てを反映する「食事」
大学生の弁当箱。実家暮らしや上京しての1人暮らしなど、いろいろな人が交わる大学のキャンパスでは、この単語から連想されるイメージは種々あるだろう。僕にとってのそれは、大きなタッパーだった。僕の両親は(当時)別居していて、僕と2人で暮らすことになった母は、文字通り朝から夜まで働いていた。起きてリビングに行くと簡単なメモとタッパーがテーブルには置いてあって(大学生という生き物は朝が遅い)、少しだけ蓋を開けて見ては、三つ葉の鮮やかな他人丼に喜んだり、煮物の汁が漏れ染みてべちょべちょになった白米を見て見ぬ振りしたり、それはささやかな一喜一憂を楽しんだものだ。
多忙(そして何より気持ちの余裕というものが持ちにくかったろう)だった彼女にとって「母親」たる矜持がこのタッパーには込められており、僕はそれを校舎の非常階段に座って(当時から友達は少なかった)よく食べたのを、いまでも鮮明に思い出すことができる。
何が言いたいかと言うと、「食事」という行為はそのときの生活や心境、経済事情などによって必然的にできあがっていて、タッパー(あるいは弁当箱、またあるいは食卓)のなかのものは、その最終的なアウトプットなのだ。
食事を通して思い出す、スウェーデンでの旅路
田附勝とスウェーデンを回っていて当時のことを思い出したのは、約3週間の撮影旅行のなかで、食事とその背景について感じ、話し合うことが多かったからだ。「北欧料理」と言うと一般的にはサーモンやミートボールが挙げられるが、現地でよく食べた(食べることになった)のはハンバーガーだった。
都市部だとそうでもないが、郊外や移動のさなかだと、食事を選ぶことがそれほどできない。ハンバーガーは比較的多くの店にメニューとしてあり(しかもケチャップとペッパーでしっかり味付けされた、ドン! という味のものだ)、あるときには何日か連続で食べるはめになった。パスタやピッツァのある店に入ると、千載一遇とばかりに食べ、それでも結果、強めの味付けにぐったりした食後を過ごす。そんなときに田附と行くのはカフェで、コーヒー(比較的どのカフェも美味しい)のLサイズをテイクアウトで買って、お店で少し飲んだあと、そのまま車に持って行って残りを飲む。
旅程で食べたハンバーガーのひとつ / 撮影:田尾圭一郎
パーキングエリアのカフェでコーヒーを飲む老夫婦。ここのコーヒーも、ささやかに美味しかった / 撮影:田附勝
アメリカナイズされたハンバーガー、現地民族によるトナカイ肉のふるまい。食事から見る、その土地の文化
17世紀、スウェーデンからアメリカに移住した開拓者は現在のデラウェア州周辺に街を興し植民地としたが、その存在はスカンジナビア半島に残った者たちの「自由の国」に対する関心であり続けた。郊外を走っているとクラシックな「アメ車」とすれ違うことも少なくなく、僕と田附は「まさかスウェーデンでハンバーガーを食べることになるとは」事件と関連付け、この国の意外なアメリカナイズを面白がった。
一方で、一般的に名物とされるサーモンはやはり美味しく、旅のコーディネーターを務めてくれたマーティンの自宅に招待されたときに食べた、サーモングリルは絶品だった(彼の奥さんは「冷凍ものを焼いただけよ」と笑いながら謙遜していたが、その佇まいがまたオシャレだった)。北部のサーミ族に食べさせてもらったトナカイの肉も素晴らしかった。目の前の焚き火で軽く炒めたスライスは香りが香ばしく、シチューは野性味ある肉の味がよく出ていた。彼らが居住するテントのなかで藁にあぐらをかき火を囲みながら食べたことが、このサーミ料理の魅力を深いものにしていた。
サーミ族がもてなしてくれた、トナカイ肉の炒めもの / 撮影:田尾圭一郎
サーミ料理をつくってもてなしてくれた、サーミ族の女性 / 撮影:田附勝
ホテルに付いてくる朝食は1日の始まりを挫くのには十分すぎて、毎朝、起きれども起きれども、かぴかぴのトマトとぺらぺらのキュウリ、やたらと種類の豊富なチーズとサラミ、である(下手したらこの4種は皆勤賞ではないだろうか)。ときどき味のない冷凍もののブロッコリーに出会うと、非日常に目を輝かせてしまう自分がいた。文化と紐付かない、合理性を追った無個性な「食事」が、こうも無味なものであるとは、と驚いた(これはスウェーデンの宿泊業を批判しているわけでなく、格安のホテルに泊まったことが理由であることを僕は自覚している。そして、日本の安いビジネスホテルに行くと、かぴかぴの白米とインスタントの味噌汁が出ることも、もちろん知っている)。
写真家・田附勝にとっての「撮影」は、その奥の文化を見つめること
田附とは、旅程を追いかけるようにハンバーガーショップが現れることや、コーヒーが美味しい理由、ホテルの食事がワンパターンであることを語り合い、目の前にある「食事」が文化の何を体現しているのかを考えた。冒頭の件を回収すると、「食事」という不可欠で切実な行為には、その生活や文化、歴史、地政が、根付き表象されているのではないだろうか。日常であるだけに、そして絶えず繰り返されるだけに、もっと自覚的に「食事」を見ていくべきなのではないだろうか。
旅のなかでいちばん美味しかったレークサンドのビュッフェ・ランチ / 撮影:田尾圭一郎
そんな話を田附としながら、これらは彼の撮影に対する姿勢と重なるのでは、と気付いた。田附は、被写体を前にしてもなかなかカメラを構えない。じっと耳を傾け、事象や行為の背景にあるものを感じ取ろうとし、考え、そうしてようやく目の前のものを「被写体」たらしめる(つまり、「撮影する」)。
一般的に言って、世の中ではデジタルカメラが流通し、スマートフォンで気軽に高画質の写真を撮れるようになり、「撮影」という行為はすっかり日常の一部になった。美しいものを、インパクトのあるものを撮影し、SNSにアップしシェアする。だがそれは、煮汁の染みた白米でありハンバーガーであり、つまり「目に写ったもの」でしかない。結果としての、アウトプットだ。
その奥にどれだけの歴史が連なっているのか、その横にどんな世界が広がっているのか、それを感じ考え、想像することを田附は重んじ、そんな彼の撮る写真とは、それを想起するための装置──きっかけ──とされる。彼の作品世界は、よりミニマルに、抽象に、そして時間軸を跳躍したものになろうとしている。そんなことを考えながら、「100均」で売っているようなただのタッパーにセンチメンタルを感じてしまう自分が、その奥に何を見出しているのかを気付かされた。
- イベント情報
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- 『あざみ野フォト・アニュアル 田附勝展』
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会期:2020年1月25日(土)~2月23日(日)
会場:神奈川県 横浜市民ギャラリーあざみ野
- プロフィール
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- 田附勝 (たつき まさる)
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1974年富山県生まれ。1998年、フリーランスとして活動開始。同年、アート・トラックに出会い、9年間に渡り全国でトラックおよびドライバーの撮影を続け、2007年に写真集『DECOTORA』(リトルモア)を刊行。2011年に刊行した写真集『東北』(リトルモア)は、2006年から東北地方に通い、撮り続けたもの。現在もライフワークとして東北の地を訪れ、人と語らい、自然を敬いながら、シャッターを切り続けている。2012年、第37回(2011年度)木村伊兵衛写真賞を受賞。
- 田尾圭一郎 (たお けいいちろう)
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1984年東京都生まれ。雑誌やwebを中心に現代美術の事業を展開する「美術手帖」にて、編集業務、地域芸術祭の広報支援、展示企画、アートプロジェクトのプロデュースに携わる。「やんばるアートフェスティバル2017-2018」広報統括プロデューサー。「美術手帖×VOLVO ART PROJECT」にて、定期的にアーティストによる展示を企画。webメディア「ソトガワ美術館」にて「手繰り寄せる地域鑑賞」を連載。「BIWAKOビエンナーレ2018」に参加。