「わくわくさん」を生きる久保田雅人が語る、自分の道の選び方

何かひとつにこだわらず、さまざまな暮らし方や働き方が可能になってきた今、たったひとつのことを突き詰めるとはどういうことなのか。

NHK Eテレ『つくってあそぼ』で「わくわくさん」としてお茶の間の子どもたちを魅了し続けた久保田雅人は、平成初期から番組終了後の現在に至るまで、変わることなくひたすらに「工作」の道を歩んでいる。

今回、「わくわくさん」になる以前のエピソードやキャリアでいちばんの失敗談、30年に及ぶ工作人生での気づきなど、盛りだくさんに語ってくれた久保田。実際に工作をしながら紡がれた言葉は、自分に何が向いているかわからないという人、自分のしていることに迷いのある人の背中を押してくれるようなものだった。

大学4年生で大きく道を踏み外しました(笑)。まず、教育実習でくじけたんです。

―久保田さんといえばやはり「わくわくさん」「工作」のイメージですが、子どもの頃から工作は好きでしたか?

久保田:そうですね。1961年生まれなのですが、自分で遊ぶものを作るのが普通でした。遊ぶものがそもそもあまり売ってもいないし、あっても買ってもらえませんでしたから。私が子どもの頃はちょうどプラモデルブームで、凝り性だったこともあり、パーツを自作したり、プラモデルを改造したり、そういうことばかりしていました。

久保田雅人(くぼたまさと)
1961年、東京生まれ。中学高校の社会科の教員免許を取得、大学在学中に劇団「プロジェクト・レヴュー」に所属し、俳優・声優として活動を開始。1990年4月から2013年3月まで放送された、NHK教育テレビ(現・Eテレ)の幼稚園・保育所向け造形番組『つくってあそぼ』に、「わくわくさん」役として出演。現在も全国の幼稚園や保育所、学校などで、工作を伝え続けている。

―幼少期からもの作りに携わりたいという気持ちはあったのでしょうか?

久保田:いやいや、小学校の時から見よう見まねで落語をやっていて、高校では落研に入り、本気で噺家になろうと思っていた時期もありました。でも、高校1、2年の担任が、私のことをとてもよく見てくださる非常にいい先生で。その先生に憧れて「俺も教師になろう」と決めたんです。

で、親父から、大学進学の条件は「落語を辞めること」と言われて。きっと本当に噺家になるって言い出すんじゃないかと心配だったんでしょうね。高校までで落語はきっぱりやめて教職課程に入り、教育実習も全部終わらせて、教員免許を取得しました。

―しかし、教師にはならず、劇団に入られたんですよね?

久保田:そうなんです。大学4年生で大きく道を踏み外しました(笑)。まず、教育実習でくじけたんです。出身高校に行ったんですけど、まあ、高校生が言うこと聞くわけないよね(笑)。それで諦めた部分があったのと、普通のサラリーマンにはなりたくないなという気持ちもあった。やっぱり落研の時の気持ちが消せなかったんでしょうね。

何か自分で表現をしたいと思ってしまったんです。そんな時、たまたま立ち読みした雑誌に、座長が三ツ矢雄二さん(『タッチ』上杉達也役などを演じる声優)、副座長が田中真弓さん(『ONE PIECE』ルフィ役などを演じる声優)っていう劇団の第1期生募集の記事が出ていて、演劇もやったことないのに、ふらふらっと入りました。

牛乳パックとストローを使った工作を紹介してくれた久保田。テレビで見ていたわくわくさんが目の前に。

―劇団に入ってからはどのような活動をされていたのですか?

久保田:小さい劇団でしたから、俳優としてだけでなく、大道具や小道具もほとんど私が作ったり、自分たちでできることはなんでもやっていました。デビューで言うと、声優の仕事が最初です。同じ作品でデビューされたのが山寺宏一さんなんですよ。

デビュー作では、私が主役をやらせていただいたのですが、山寺さんにはあっと言う間に抜かれました(笑)。座長の三ツ矢さんが『タッチ』のたっちゃんをやっていたこともあり、私もラスト1年間は準レギュラーで出演していました。

任せられた以上はとことんやろうと思いましたし、ダメになったら、ダメになったでいいじゃないかと。

―そこからどうやって「わくわくさん」になっていったのですか?

久保田:平成元年の春、田中真弓さんがNHKのディレクターさんから、「『できるかな』(NHK教育テレビで1970年から1990年まで放送されていた工作番組)が終わることになったけど、工作番組は続けたくて出演者を探している」と相談を受けて。

人差し指の第二関節程度の幅に牛乳パックを切ってホッチキスでくっつける。「人差し指の第二関節の長さって、大人はみんなだいたい一緒なんですよ」(久保田)

久保田:『できるかな』ののっぽさんは喋りませんでしたが、次は喋らせたいという希望があったそうで、「うちの劇団に、大道具・小道具を作っていて、喋らせてもおもしろいのがいるからオーディションだけでも受けさせてください」と田中さんが紹介してくださったのが私だったんです。

―子どもの頃からものを作るのが好きだったとはいえ、今までやってきたこととはまったく違うフィールドでの仕事ですよね。

久保田:そうなんです。当時は俳優としてもエキストラばっかりで、主役なんてやったことがありませんし、初めて出た映画も死体役でしたからね。あとから聞いたら、実はオーディションしたのが私だけだったんですって。何人も見るのは面倒だし、とりあえず1人受けにきたからこいつでいいかって決めた、と(笑)。

久保田:ものを作ることに関してはある程度自信がありましたけど、まともにテレビで喋ったことがなかったし、それまで子どもと何かをしたという経験もなかったので、一から勉強でした。幼稚園や保育所に自分で電話をして、実際に子どもたちの前で工作をさせていただき、「これが子どもたちには伝わるんだ」「これは子どもたちには難しいんだ」と学んでいきました。

―「わくわくさんをずっと続けていくんだ」と決意した瞬間はあったんですか?

久保田:しばらくの間はアニメ声優も並行してやっていたんです。番組が始まって3年後、結婚して子どももできたタイミングで、それまでやっていた声優の仕事も事務所も全部やめて、わくわくさん一本に絞りました。

牛乳パックを丸々1本使い、10分足らずで3つの工作が完成。

久保田:ちょうど自分の中でも、工作を教えるということが楽しくなってきたんです。自分自身も楽しかったから、どこまでできるかかけてみよう、さらに突き詰めてみようと思った。妻がたった一言「いいよ」と言ってくれたことも後押しになりました。やっぱり任せられた以上はとことんやろうと思いましたし、ダメになったら、ダメになったでいいじゃないかと思って。

番組なんていつ終わるかわからないけど、やれるだけやってみようと。そこから必死になれたんです。

―一本に絞りつつも、ダメならダメでという気持ちだったんですね。

久保田:そうですね。何年契約とかっていうものがあるわけじゃないですし、番組なんていつ終わるかわからないけど、やれるだけやってみようと。そこから必死になれたんですよね。物事をひとつ突き詰めている方はみなさんどこかで自分を追い込んでいると思います。自分を追い込んで、「もうこれしかない」って思う状況や環境を自分で作りました。

ころがしたり、キャッチボールをしたり。

―追い込むと同時に、先ほどおっしゃっていたように自分が楽しめる状況を作るというか。

久保田:そうですね。私とゴロリくんが本気で遊ぶようになったのも番組が始まって3年目以降です。ゴロリくんは声と操演が別の方ですから、まさに三位一体にならないといけなかった。難しかったですが、初回から最終回まで番組のメインスタッフがずっと変わらなかったので、周りも私たちのことを理解してくれていて。

―ひとつのことを長く続けるってひとりでも大変ですが、チームが長く続いた理由ってなんだと思いますか?

久保田:みんなとにかくものを作ることが大好きで、夢中になれる人間だったんです。あとはみんな明るかった。自分が楽しくないとダメだということを、一人ひとりがわかっていたんでしょうね。みんなが楽しくて、それを伝えられるような番組を作ろうという思いのもとにやれたのが良かったんだと思います。

牛乳パックの底はストローをつければコマに。

―ただ、同じチームで長年「工作」をテーマにしていると、途中で劇的に何かを変えよう、変化球を出そうという気持ちになりませんでしたか?

久保田:自分たちが変わるというよりは、23年もやっていると世の中が変わります。つまり子どもたちの身の回りにあるものがどんどん変わるので、それに合わせて工作自体がかなり変化しました。たとえば、フィルムケースやキャップを車のタイヤとして使っていたんですけど、今はもうほとんどないじゃないですか。その代わりペットボトルを使ったものが多くなったり、工作でパソコンを作るようになったりしましたね。

工作はものを作るだけじゃない。「親子で作って楽しかったね」という思い出を作ってほしい。

―時代に合わせて変わっていかないといけなかったんですね。

久保田:そうですね。あと、番組が始まって10年くらいして、「わくわくさんとゴロリくんが作ったものと同じでないといけない」「こう作らねばならない」と思ってしまっている親御さんが増えてきたように感じました。「それは違うぞ!」と言いたい。見た目はどうだっていいんですよ。工作はものを作るだけじゃないんです。それよりも「親子で作って楽しかったね」という思い出を作ってほしい。

久保田:それからは、「工作は思い出を作るということを伝えよう」という気持ちに変わっていったのが自分の中では大きかったです。でもやはりやればやるほど苦しいなと思う時もあります。未だに本番前は緊張しますし、やっぱりどこかで失敗を怖れている自分もいます。

―それでも逃げず、目移りもせずに、今の道だけを歩んでこられたのはなぜでしょう?

久保田:続けていると苦しい反面、「こうしたらいいんだ」と見えてきた時の喜びも大きくなっていくんです。始めた当初は本当に全然ダメだったんですよ。子どもたちは大人と違って義理で見てくれないから、途中で話し始めちゃうし、じっとしてない。そういうことを嫌でも経験して。

それでも続けて、番組開始から15年以上経ったら、自分の頭の中も「わくわくさん」ばかりになっていました。渥美清さんが「渥美清が寅さんに喰われちゃった」とおっしゃっていたのですが、私もわくわくさん以外できなくなっちゃったんですよね。役者としては一生やり続けたいと思える役に出会えるなんて本当に幸せなことです。

―番組が終わってもなお「工作」を軸に置いているのはなぜでしょうか?

久保田:『つくってあそぼ』が終わって、民放さんにちょこっとだけ出させていただいたんですけど失敗したんです。やっぱり違うなと思いましたね。その道を歩むと決められて、鍛錬を積み重ねてきたタレントさんたちがいるわけですから、私が混じったところで敵うわけがない。テレビに出るとかそういうことではなく「工作を世に広める活動が俺の道なんだな」と、失敗して改めて感じました。

―ひとつのことを突き詰めるというと、「横道に逸れてはならぬ」といった感覚にもなりそうですが、久保田さんのその気づきは、いつもと違うことをやったからこそ得られたものですよね。

久保田:そうですね。エキスパートと言われている方は、ちょっと横道に逸れていろんな失敗をされていると思います。だからこそ「やっぱり俺にはこれなんだ」と気がついていらっしゃるんじゃないかな。

人生に本当の失敗なんてないんですよ。それは、自分が間違っていたことを知るという成功なんです。

―どれだけ失敗しても戻ってきてしまうところに、自分の突き詰めるべき道があるのかもしれないですね。

久保田:そうだと思います。もちろんいろんな肩書きがある人も素晴らしいです。いろんな才能をちゃんと活かせているからできることですもんね。頭を多方面に切り替えられない人はひとつの道を突き進むしかないけれど、何回かは欲を出して横道に逸れてもいいと思います。人間、他のことに手を出したくなる時もありますから。それで失敗するといい。

私が思うに、人生に本当の失敗なんてないんですよ。それは、自分が間違っていたことを知るという成功なんです。工作でも、私は子どもたちに「失敗してもいいよ」と言います。間違えを知るだけでいい。それが、「今度はこうしてみようね」という進歩につながるわけなんです。一度やってみると、次の攻め方もわかってきます。

「YouTubeも欲ですね」と久保田。工作の見せ方をより突き詰めた動画制作を計画中だという。

―「これにかける」という決意には、ほかのものを捨ててストイックに進むような禁欲のイメージがつきまとう気がするのですが、欲は大事だと思いますか?

久保田:人間、絶対欲が出ますからね(笑)。いろんな選択肢を持っていていいんですよ。それでいろいろチャレンジして失敗することで、自分というものを知る。すると道が見えてくるわけです。番組が終わって、私が民放に出たのも欲ですよ。私のような職業はテレビに出続けてなんぼだと思っていたんです。

だから、深く考えずにホイホイ出てしまった。そしたらやっぱり失敗して、改めて自分のことを知れました。欲が出て、失敗したり、もしかしたら横道のほうが本流になったり、でも、また戻ってきたり……そういうことの繰り返しだと思うんです。

自分に絶対満足してはいけないし、どれだけ良くても完成だと思ってはいけない。

―そもそも自分に何が向いているかわからないという人も多いですよね。

久保田:多いと思います。私が思うのは、とにかく行動してくださいということ。まずはやらないとわからないんだから。欲を出して、「これをやってみよう」と思ったのならば、とにかくやってください。そこで失敗を認識し、人のせいにしない。もちろん人のせいもあり得るんだけど、自分の何がまずかったのかを考えないといけないですね。すべては自分を知るための行動と失敗なんです。それを恐れちゃいけないですよ。

―久保田さんは自分の失敗を受け入れることは怖くないですか?

久保田:怖いですよ! やっぱり失敗は嫌だもん(笑)。たとえば役者なんかは「今日はお客さんの質が悪い」とかね、そう思いたい人も多いと思います。でも、そういう自分を見つめ、思い直しました。自分に絶対満足してはいけないし、どれだけ良くても完成だと思ってはいけない。「出来が良かったな」って程度だと思わないと。

―久保田さんの今まででいちばんの失敗はなんですか?

久保田:今から15年くらい前かなあ、自分で構成、脚本、演出を考えたわくわくさんとゴロリくんのツアーを作ったんです。その初回公演が大コケ。終演後、ゴロリくんと4時間くらい話してほぼ本を書き換えました。それに付き合ってくれたゴロリくんもえらいですよね。

だから次の公演からは大丈夫だったんですが、結構ショックでしたよ。自分ではちゃんとした脚本にしたつもりだったし、ちゃんと稽古したつもりだったのにボロボロ。よく考えたら、妙な笑いを取ろうとしたり、欲を出しちゃったんです。やっぱり私とゴロリくんならば、きっちり工作を作るところを見せなきゃいけないと気づきました。

ゴロリくんがえらいのは、わりと私のことを否定すること。

―ゴロリくんとはそうやってよく意見交換していたのですか?

久保田:はい。ゴロリくんは容赦ないですよ~! ゴロリくんがえらいのは、わりと私のことを否定すること。どうしても自分だけでは「いいものだ」と思ってしまうけれど、「それは違う」と言ってくれる人がいるのはありがたいです。人間って弱いもので、人に何かを相談する時ってもうすでに結論が出ていて、それに対して「うん、そうだよね」って言ってほしい。

だから、自分に賛同してくれる人に相談しちゃうんですよね。でも、ゴロリくんは「わくわくさん、それは違いますよ。もうちょっとこうやるべきですよ」って言う。否定してくれる人にも相談しないと、自分の作るものがある一点に固まっちゃうだけなんです。否定されて、そこからまた違うものが見えてくるし、それを受け入れないと長く続かないですね。

―いろんな自分を知り、受け入れるということですね。

久保田:本当にそうです。だから自分で飛び込むしかない。ひょんなことで新しい扉が見えてくることもありますが、それだけのアンテナを張っていないといけないですよね。つまり、どれだけ自分が好奇心旺盛でいられるか、なんでも「おもしろい」と思ったり、「なんでだろう?」と思ったりすることが最初の一歩だと思います。

―今、久保田さんがいちばんやってみたいことはなんですか?

久保田:もう一回、わくわくさんとゴロリくんのコンビで楽しいステージをやってみたいですね。ステージはほとんどアドリブだから阿吽の呼吸なんですけど、終わったあとにゴロリくんが怒るんだよね。「久保田さん違うじゃないですか」って(笑)。で、僕も怒るんですよ、「なんだあのアドリブは! さっきのアドリブに対する君の演技プランを聞かせてもらうまでは許さないぞ」って(笑)。とにかく毎回試行錯誤です。でも、いつまでもそうしていたい。いつまでも悩んで、いつまでも失敗していたいです。

プロフィール
久保田雅人 (くぼた まさと)

1961年、東京生まれ。中学高校の社会科の教員免許を取得、大学在学中に劇団「プロジェクト・レヴュー」に所属し、俳優・声優として活動を開始。1990年4月から2013年3月まで放送された、NHK教育テレビ(現・Eテレ)の幼稚園・保育所向け造形番組『つくってあそぼ』に、「わくわくさん」役として出演。現在も全国の幼稚園や保育所、学校などで、工作を伝え続けている。



フィードバック 102

新たな発見や感動を得ることはできましたか?

  • HOME
  • Life&Society
  • 「わくわくさん」を生きる久保田雅人が語る、自分の道の選び方
About

「幸福度が高い」と言われる北欧の国々。その文化の土台にあるのが「クラフトマンシップ」と「最先端」です。

湖や森に囲まれた、豊かな自然と共生する考え方。長い冬を楽しく過ごすための、手仕事の工夫。

かと思えば、ITをはじめとした最先端の技術開発や福祉の充実をめざした、先進的な発想。

カルチャーマガジン「Fika(フィーカ)」は、北欧からこれからの幸せな社会のヒントを見つけていきます。

スウェーデンの人々が大切にしている「Fika」というコーヒーブレイクの時間のようにリラックスしながら、さまざまなアイデアが生まれる場所をめざします。

「幸福度が高い」と言われる北欧の国々。その文化の土台にあるのが「クラフトマンシップ」と「最先端」です。

湖や森に囲まれた、豊かな自然と共生する考え方。長い冬を楽しく過ごすための、手仕事の工夫。

かと思えば、ITをはじめとした最先端の技術開発や福祉の充実をめざした、先進的な発想。

カルチャーマガジン「Fika(フィーカ)」は、北欧からこれからの幸せな社会のヒントを見つけていきます。

スウェーデンの人々が大切にしている「Fika」というコーヒーブレイクの時間のようにリラックスしながら、さまざまなアイデアが生まれる場所をめざします。