愛おしい人間臭さを抱きしめて 田附勝の写真の読み解き方

日本の北部・東北を撮る写真家に、ヨーロッパの北部・スウェーデンの撮影を依頼。その旅の最終章

スウェーデンの西海岸スモーゲンの町を見下ろす高台で、ボルボ車に出会った。一見こわそうな顔をしているが人のよい青年が乗っていて、愛車への思い入れやこの町に来たいきさつを、楽しそうに説明してくれた。写真家である田附は興奮気味にその話を聞き、クルマと彼のツーショットを写真に収めた。

それから数日後、ストックホルムの東洋博物館(Museum of Far Eastern Antiquities)では、収蔵されている縄文土器を撮影させてもらった。1926年、考古学に長じていた当時のスウェーデン皇太子が、日本を訪れた際に寄贈されたものらしい。ぼくらはこの地で日本の古物に出会うことを運命めいて感じた。

東洋博物館に収蔵されている縄文土器
東洋博物館に収蔵されている縄文土器

一般に難解とされる現代アートだが、その解釈や読み込みにはある種の「コツ」がある。アートシーンの主流の1つ、欧州がそうであるように、哲学や政治、社会、歴史といった一定の普遍的なテーマを多くの作品は背景に抱えていて、田附の写真もまた、その文脈上に置いて解釈することが可能だ。

写真家・田附勝が評されるときによく言われるのは、「東北で暮らす人や動物、営みをモチーフに、生きることのリアルや普遍性を捉える」といった内容だ(もちろん最大公約数的な雑な文言であることを許してもらいたい)。だからこそぼくも北欧(日本の北である東北に対し、ヨーロッパにおける北)であるスウェーデンの撮影を彼に相談した。美術に関わる仕事をしている身としてスウェーデンの旅で興味深かったのは、普段は完成した作品を読み解きほぐすように解釈を進めているのが、今回ではその逆に、編み込んでいくように様々なテーマを作品が含んでいく過程を見れたことだ。

田附勝の写真から思い出される、愚直で愛おしい「人間臭さ」のある生活

帰国してから撮った写真はボルボ・カー・ジャパン公式カレンダーになり、展示になり、冊子になったが、その度にぼくは、作品や旅に関することをこうして言語化する機会を得た。──日本とスウェーデン。縄文時代と現代。時間軸や文化の越境やひずみを静謐(せいひつ)に切り取る──流暢にプロジェクトのコンセプトを何度も説明してきたが、1年という時間の風化をもってなお瑞々しく記憶に残っているのは、田附に「行こうぜ」と誘われた東北の怪しげなスポットや、教えてもらった宮沢賢治の詩、彼が歯ブラシを濡らさないまま口にくわえ磨いていたことだ。そういった、愚直で愛おしい人間臭さみたいな営みこそが印象に残り、写真を見る度に思い出される。

田附勝『東北』に掲載された写真 / Ogamisama September 2007, Kesennuma, Miyagi
田附勝『東北』に掲載された写真 / Ogamisama September 2007, Kesennuma, Miyagi(Amazonで購入する

オフィシャルで知的なものと、私的で生臭いもの。ぼくのなかの2つの解釈の温度差が、作品を「よくわからないグチャグチャとしたもの」にしているのだ。重厚で静的な被写体と構図なのに、写真をトリガーに引き出される思いは、ちっとも整ってないのだ。

「小さなことば」で作品を解釈すること。それはすこし、クルマへの愛にも似ている

田附勝の作品性が指すものには、多くの人に共有される「大きなことば」による普遍的な解釈だけでなく、ひどく個人的で私小説的な「小さなことば」による人間性も、含まれるのではないだろうか。奔放なようで仲間思い、野心的なようで繊細な田附(彼と面識のある人の多くはうなずいてくれるのではないだろうか)の人間性は、作品の魅力と解釈をいびつにふくよかにしてくれる。彼と3週間も旅をした編集者としてのぼくの仕事は、そんな私的な解釈を人に伝えることのように、1年をかけて思われてきた。

冒頭で「愛車」という言葉を用いたが、これはクルマ以外の乗り物にはあまり使われない、特殊な単語だ。多くの人と空間を共有する鉄道や飛行機に対し、クルマは個人的な所有物で嗜好性が高い。3週間スウェーデンを旅している間にも、アームレストにお菓子が置かれ、サイドブレーキにゴミ入れとしてのビニール袋がかけられ、流す音楽の選び方もすっかり定まった(小声で言えば、少しだけシートにこぼしたコーヒーの染みも、愛着深い)。スピードや燃費、安全性能といった業界で統一された価値規定を持ちながら、個人的な嗜好性を併せ持つその多層性がクルマの魅力だとしたら、それは田附の作品にも少し似ているのかもしれない。

知らない人を知りすぎるぼくたちだから、小さな世界を、手のひらで育んでいこう

ぼくたちはいま、知らない人を知りすぎている。おどけて振る舞う芸能人に、行ったことのない被災地に暮らす人、容易につながるSNSアカウントたち。顔も性格も知らない人たちにぼくたちは、あるときは超人的な想像力と全方位的な配慮でことばを送り、またあるときはぞんざいに罵り罵倒する。

Twitterのコメントには人間性を否定するような嘲笑が並び、思想に反するものには罵詈雑言が浴びせられる。正直、ぐったりしてしまう。もっと、コーヒーの染みがついた愛車のような空間を、田附の写真に対するひどく私的な解釈を、そっと両の手にすくい、こぼれないように育むことができないだろうか。愚直でつまらない小さな世界の手ざわりを、大切に守れないだろうか。家のリビングにかけられた、顔も性格も知った写真家の作品は、そんな可能性を示唆している。

そういえば田附の最初の作品集は、狭い運転席の空間に私的な愛着と思い出を詰め込んだ、『DECOTORA』というタイトルだったことを、書きながら思い出した。

Tenkamaru; In a Tunnel, Tochigi 2005(『DECOTORA』より)
Tenkamaru; In a Tunnel, Tochigi 2005(『DECOTORA』より / Amazonで購入する

“Mayumimaru; Driver Mr. Kojima, Behind a Wheel” Tokyo 2006(『DECOTORA』より)
“Mayumimaru; Driver Mr. Kojima, Behind a Wheel” Tokyo 2006(『DECOTORA』より / Amazonで購入する

イベント情報
『あざみ野フォト・アニュアル 田附勝展』

会期:2020年1月25日(土)~2月23日(日)
会場:横浜市民ギャラリーあざみ野
〒225-0012 横浜市青葉区あざみ野南1-17-3

プロフィール
田附勝 (たつき まさる)

1974年富山県生まれ。1998年、フリーランスとして活動開始。同年、アート・トラックに出会い、9年間に渡り全国でトラックおよびドライバーの撮影を続け、2007年に写真集『DECOTORA』(リトルモア)を刊行。2011年に刊行した写真集『東北』(リトルモア)は、2006年から東北地方に通い、撮り続けたもの。現在もライフワークとして東北の地を訪れ、人と語らい、自然を敬いながら、シャッターを切り続けている。2012年、第37回(2011年度)木村伊兵衛写真賞を受賞。

田尾圭一郎 (たお けいいちろう)

1984年東京都生まれ。雑誌やwebを中心に現代美術の事業を展開する「美術手帖」にて、編集業務、地域芸術祭の広報支援、展示企画、アートプロジェクトのプロデュースに携わる。「やんばるアートフェスティバル2017-2018」広報統括プロデューサー。「美術手帖×VOLVO ART PROJECT」にて、定期的にアーティストによる展示を企画。webメディア「ソトガワ美術館」にて「手繰り寄せる地域鑑賞」を連載。「BIWAKOビエンナーレ2018」に参加。



フィードバック 0

新たな発見や感動を得ることはできましたか?

  • HOME
  • Life&Society
  • 愛おしい人間臭さを抱きしめて 田附勝の写真の読み解き方
About

「幸福度が高い」と言われる北欧の国々。その文化の土台にあるのが「クラフトマンシップ」と「最先端」です。

湖や森に囲まれた、豊かな自然と共生する考え方。長い冬を楽しく過ごすための、手仕事の工夫。

かと思えば、ITをはじめとした最先端の技術開発や福祉の充実をめざした、先進的な発想。

カルチャーマガジン「Fika(フィーカ)」は、北欧からこれからの幸せな社会のヒントを見つけていきます。

スウェーデンの人々が大切にしている「Fika」というコーヒーブレイクの時間のようにリラックスしながら、さまざまなアイデアが生まれる場所をめざします。

「幸福度が高い」と言われる北欧の国々。その文化の土台にあるのが「クラフトマンシップ」と「最先端」です。

湖や森に囲まれた、豊かな自然と共生する考え方。長い冬を楽しく過ごすための、手仕事の工夫。

かと思えば、ITをはじめとした最先端の技術開発や福祉の充実をめざした、先進的な発想。

カルチャーマガジン「Fika(フィーカ)」は、北欧からこれからの幸せな社会のヒントを見つけていきます。

スウェーデンの人々が大切にしている「Fika」というコーヒーブレイクの時間のようにリラックスしながら、さまざまなアイデアが生まれる場所をめざします。