津野青嵐に訊く、元看護師だから実現できる希望ある「服作り」

服飾に対する系統的な知識も、パターン作成や縫製のテクニックも全くゼロの状態から、わずか数年で世界の新人ファッションデザイナーたちと対等に競い合うことなどできるのだろうか? そんな無謀とも思える試みに真っ向から挑戦し、シーンに鮮烈な印象を残した女性がいる。3Dペンを利用した衣装を作り上げ、ヨーロッパ最大のファッションコンテスト『ITS 2018』にて日本人で唯一ファイナリストに選ばれた津野青嵐だ。

津野の作り出す衣装は、最新テクノロジーを用いた近未来的な美しさと、日本古来のフォルムを併せ持っている。それは、長野の田舎に生まれた彼女自身の幼少期の記憶や、新宿のど真ん中で過ごした思春期の体験が混じり合って生まれたものなのだろう。

「writtenafterwards」デザイナーの山縣良和が主宰する学校「ここのがっこう」にて本格的にファッションを学んだ津野は、果たしてどんな経緯で3Dペンに興味を持ち、どのように使いこなしているのだろうか。怒涛の2018年を駆け抜けてきたという彼女に、もの作りへのこだわりはもちろん、将来への展望などさまざまなトピックについて話してもらった。

何より山縣(良和)さんの作品がやばくて(笑)。「この人の教育だったら受けてみたい」と、ようやく決心したんです。

—津野さんは元々、精神科の看護師として働いていたんですよね。異業種からファッションを学ぶようになった経緯を教えていただけますか?

津野:私は今、28歳なのですが、25歳まではファッションについての教育を受けてなかったんです。元々もの作りは好きだったんですけど、美術大学へ進むほどの覚悟はなかったし、親の勧めに従って看護の道に進みました。

大学4年生になり、就職活動を考える段階で「精神科だったら看護師として働きたい」と思い、卒業して精神科の専門病院に入りました。それと同時並行で、自分自身で「過剰な装い」みたいなことをやり始めたんです。

津野青嵐
津野が3Dペンを使用して作った衣装 / Photo by Jun Yasui

—「過剰な装い」とはどういうものだったのですか?

津野:顔を白塗りして、派手な服や手製のヘッドピースを身につけて街を歩くんです(笑)。看護学校に通っている現状に対する反動もあって、趣味というよりは、もう少しシリアスに「発信したい」と思っていましたね。

精神科の看護師として働き始めてからも、25歳まではずっとそんな感じだったのです。でも、これからの人生を考えたときに、クリエイティブやファッションについて何の知識もないままでいいのだろうかと。同世代や下の世代が基礎をちゃんと身につけながら、クリエイティブな活動しているのを見ているうちに、そう思うようになったんです。

白塗り、自作のヘッドピースを着用する当時の津野

津野:そんなときに友人に勧められたのが、山縣良和さんが設立した「ここのがっこう」でした。卒業生は日本のファッション業界でもかなり名が知られていて、例えば私の中高の先輩である中里周子さん(ファッションブランド「NORIKONAKAZATO 」デザイナー)の出身校でもあったんですよ。それでまず興味を持ったのと、何より山縣さんの作品がやばくて(笑)。「この人の教育だったら受けてみたい」と、ようやく決心してクリエイティブの世界に飛び込んだんです。

—山縣さんの作品は、どんなふうに「やばかった」のですか?

津野:目黒の東京都庭園美術館で行われたファッションショーでは、戦後日本をテーマに、多くのルックで日本人の集団性を表現していました。山縣さん曰く、「日本人の『集団性』のルーツは、山にある」と、ショーの後半で大きな3つの「山」が登場するんです(笑)。冒頭は、稲田(朋美)防衛大臣が記者に囲まれているところにインスピレーションを受けたルックで、真ん中にいるモデルだけでなく、周りを取り囲む記者も含めて「装い」として捉えている。

山縣さんは常に歴史的な視点を深く持ち、装うことの愛おしさとともに、「ファッションとは何か? これがファッションなのではないか?」と、ファッションのあり方を世間に問いかけているんです。

—(映像を観ながら)それで音楽は“Starting Five”(『報道ステーション』オープニングテーマ曲)を使用しているのですね。そんな山縣さんの学校で、初めてファッションについて本格的に学んでみていかがでしたか?

津野:衝撃的でした。それまで作品を見てくれたのは、私を好いてくれている人だからリアクションもよかったし自信があったんです。けど、いざプロの世界を目指す人たちに並んで「評価」されるとなると、自分がそのレベルに至ってないことに、入学して早々に気づいてしまって。

私よりもずっと若い10代の子たちの方が面白いものをたくさん作ってくるし、自分で新しいと思ったことも、先人がやっていたりして……。先生たちからも手厳しい評価をもらい、今まであった自信が根こそぎ削ぎ落とされ、とにかく悩みました。

津野:そんなときに『ITS』の存在を知り、今までやってきたことやプライドは一旦置いて、新たな考えで作った作品を提出してみようと思いました。色々アドバイスを受けながら、気持ちを切り替えられたのがちょうど2018年の1月くらいだったんです。

自分では当たり前だと思っていたことが、他人から見るとすごく特殊だということがあって、創作活動のヒントにもなる。

—新たな考えで、とのことですが、どのように気持ちを切り替えていったのですか?

津野:「ここのがっこう」では、自分のルーツを掘り下げるんです。両親はどんな幼少期を過ごし、どんなことに興味を持ったのか。両親が住んでいた地域の歴史や習慣は、どんなものだったのか。そんなところまで広げていくと、自分では当たり前だと思っていたことが、他人から見るとすごく特殊だということがあって、創作活動のヒントにもなる。

そうして見出したコンセプトの1つが、「人が目に見えない世界と交信する『媒介』としての装い」でした。看護学生時代の過剰なメイクや巨大なヘッドピースも、民族衣装や、古代の儀式で生贄や神、祖霊といった目に見えない世界と媒介するシャーマンなどに施されたメイクや装飾に行き着くんです。

—なるほど。

津野:なぜ、そういう過剰な装飾を儀式で用いたのかというと、例えば村が飢餓や災害で苦しみ怯えているときに、神様や見えない世界と交信するためには非日常のスタイルが必要だった。それは日本だけじゃなくて、ヨーロッパやアフリカなど、さまざまな場所で同時多発的に登場したものなんですよね。

—人類共通の気持ちがあったわけですね。

津野:自分も、過剰なメイクやファッションを行なっていたのは「別世界へ行きたい」という気持ちの表れだったんじゃないかなと。現実世界である、看護師としての病院での勤務が日常のレールの上を走っている気がして、そこから「逃避」したいという気持ちもあったのかもしれません。

古代の儀式的な装飾が発展してきた歴史に比べると、私の装いはただ私的な感情が作らせた表現だったかもしれない。ですが、人々が過剰な装いに対して抱いていたであろう希望や、ある意味で心の癒しのような部分に深く共感しているんです。

津野の制作したヘッドピース作品『What do you feel this red in Japan?』 / Photo by Teppei Takazawa

—それを、服飾作りのテーマにしようと。

津野:ただし「現代」において、どんなマテリアルやツールを使うのが最も有効なのかを考える必要がありました。そんなときに、先生から「『ITS』において、日本人の強みは素材探求だ」と言われて、パッと思いついたのが、プラスチックを使用した造形が可能な3Dプリンターだったんです。

まずは実際に体験してみようと、東急ハンズへ見に行ったんですね。そこには2体のサンプルが置かれていて、1つは3Dプリンターで作った精密で美しい造形だったんですけど、その横には素材は同じでもすごく哀れな造形があって……(笑)。それが、3Dペンで作ったものだったんです。

3Dペンを使って手作業するということは、自分の想像次第でどんなものでも作れるわけですよね。

—3Dペンは、3Dプリンターと同じ素材を使って「手作業」でものが作れるわけですよね?

津野:そうなんです。手作業ということは、自分の想像次第でどんなものでも作れるわけですよね。そのサンプルはとても小さいものだったけど、やろうと思えばヘッドピースや服も作れるんじゃないかと。

最初は、今までと同じようにヘッドピースを作ろうと思っていたんですけど、学校の講師である坂部三樹郎さん(「MIKIO SAKABE」デザイナー)に「お前、ヘッドピースずっと行き詰まっていたから、服作れよ」と急に言われて(笑)。確かに行き詰まっていたし、新たな試みとしてテーマやコンセプトをそのまま服にシフトしてみようと思いました。それでトルソー(マネキン)を買って試行錯誤し始めたんです。

—ヘッドピースから洋服に変わったのは、津野さんの中ではかなり大きかったでしょうね。

津野:そもそもファッションに関する技術もないし、教育も受けてない。周りのみんなはファッションの学校を出ていて縫製の技術を持っているし、『ITS』を受ける海外のデザイナーは当然、一流の教育を受けている。そんなレベルに、たった数か月で追いつけるわけがないし、教育も技術もゼロだからこそできることを探していたら、「3Dペンで服を作る」という方向性に行き着いたわけです。

津野が初めて制作した衣装。着用しているのは、津野の実父

—『ITS』では、2018年6月に行われたショーも大反響だったそうですね。

津野:5体のワンピースが歩いている姿は、自分でも全く想像できないものでした。私に向かって「Winner!」と叫んでくれる人もいたし、隣で見ていた韓国人の子たちは「これ……夢ですか……?」みたいに呆気にとられていて(笑)、本当に嬉しかったですね。先生たちも「グランプリあり得るかもね」って興奮してたんですけど、でも、実際に賞を総ナメにしたのは私とは正反対の、モノトーンでミニマルな、プロダクト寄りの服たちでした。

『ITS』のショーの様子 / Photo by international talent support
グランプリの『ITSアワード』を獲得したコレクション

—それは悔しかったですね。

津野:ものすごく悔しかった。準備を夜通し手伝ってくれた学校の後輩たちにも「グランプリ獲ったよ!」って言いたかったのに。「この数か月は一体何だったんだろう」という気持ちになり、帰国してしばらくは燃え尽き症候群みたいになっていましたね。最近はようやく立ち直ってきましたけど。

昔の儀式で捧げられた生贄が精神障害者だったり、あるいは神様として崇められた歴史を知り、興味が湧いて。

—津野さんの創作は、「見えない世界との交信」や「非日常への憧れ」がテーマになっているとのことですが、それはご自身の生まれ育った環境からも影響を受けていますか?

津野:多分に受けていると思います。私の出身は長野県で、諏訪大社の御神体と言われている守屋山の麓にある、神社の目の前に実家があったんです。小さい頃はそんなこと全然知らずに川遊びをしたり、境内に入ったりしていました。自然への脅威や土着信仰みたいなものを、無意識ながら感じていたのかもしれないですね。

—ずっと長野で育ったのですか?

津野:7歳まで長野にいて、そのあと新宿に引越したんです。ど田舎から新宿・歌舞伎町のど真ん中という、ものすごいギャップに興奮しました。アングラな空気感にすごく興味を持っちゃって、寺山修司や唐十郎のような新宿カルチャーに、中高時代はどっぷり浸かっていました。

昔から隠された歴史のある事柄に興味を持ちやすく、精神科に惹かれたのも、実はそういう趣向がスタートだったかもしれません。実際に患者さんと関わってみたら、それ以上に心を揺さぶられる魅力を感じたので、仕事として続けられていましたけど。幼少期の体験、歌舞伎町での体験、看護師としての体験、全部がリンクしているんですけど、なぜ、こんなに興味が湧いているのかはいまだによくわからない。ずっと考えているんですけどね。

「ここのがっこう」の生徒はみんなファッションブランドに詳しくて、彼らに対するコンプレックスもめちゃめちゃあるんです。

—津野さんのデザインする洋服は、フォルムも独特ですよね。Twitterではスペインの謝肉祭に出てくるキャラクターついて呟いていましたが、土着的で大きな形状に惹かれるところはありますか?

津野:ありますね。調べてみると、人は信仰が強ければ強いほど、作るものが大きくなっていくんですよ。民族衣装の中には、自分の身長と同じくらいの大きさのヘッドピースもあって、「畏敬の念」を感じるくらいの迫力が、装飾には必要だった。

日本の祇園祭の御神輿も、海外からゴブラン織のタペストリーを取り寄せるなど、お金も手間もかけています。日本では、神様や魂は空間に浮遊しているという考えがあるんです。そいう存在は、非日常的で大きなものを見つけて降りてくるので、目立たせる必要があるそうです。

—そういったものに影響を受けているとなると、津野さんが作りたいファッションは日常的に身に付けるものとは少し違いますか?

津野:かなり違うと思います(笑)。私自身、ずっと太っていたから服を買ったことがなくて、全て、おばあちゃんと同じ縫い子さんに作ってもらっていたんです。

「ここのがっこう」の生徒たちはみんなファッションブランドに詳しくて、彼らに対するコンプレックスもめちゃめちゃあるんです。彼らから見ても「面白い」と思えるデザインにしたかったので、入学してからは浴びるように勉強しました。

—お話を聞いていると、「ここのがっこう」の山縣さんからの影響も相当大きかったのでしょうね。

津野:そうですね。新しいものを作るためにはルーツを知る必要があること。そして、ファッションをファッションの世界だけで見てはいけないということも教わりました。「ここのがっこう」が特殊なのは、ファッションの学校なのに、言語学者や物理学者が講師として在籍したり、いろんな分野の方が講評に来てくれるんです。それで視野も広がりましたね。

看護師であり、デザイナーでもある私だからこそできることを考えたら、精神科の患者さんたちと一緒に「メゾン」を作ることなんじゃないかなと。

—津野さんは長期的な目標として「精神科の患者さんたちと一緒に『メゾン(ファッション業界で会社や店を指す)』を作ること」を考えているそうですね。それは、どんな思いからですか?

津野:元々病院勤務をしていたときから、精神科に携わる地域の仕事がしたいという目標がありました。というのも、日本の精神医療は他の先進国と比べて入院日数が長いんです。患者をサポートできる環境も少ないし、家族が受け入れを拒否したり、施設に入れなかったりすると、治療の必要はないのに長期入院になってしまう。

イタリアでは、1970年代に「バザリア法」が成立され、精神科病院が廃止されました。よほど治療が必要な人以外、地域で生活できることを前提に仕事をさせています。日本でも、ここ10年くらいは「患者を地域で受け入れよう」という意識が進み、活動も行われているのですが、まだまだ少ないような実感があります。退院しても孤立して、また調子を崩して病院へ逆戻りというパターンが多いので、この社会で生きている、自分が必要とされているという感覚を、患者さんが持ちづらいのかもしれない。

—生き方、働き方のバリエーションが少ないのが問題なのでしょうね。

津野:職業支援はあっても単純作業ばかりだし、やりがいを見出すのが難しいんです。そうした現状に対して、自分自身も何らかの形で貢献できないかなと、病院で働いていた頃からずっと思っていました。

3Dペンを使った洋服作りは、集中したら特殊な技能がなくてもできることだし、縫製技術のような積み重ねの鍛錬は必要ない。『ITS』では学校の後輩に手伝ってもらったんですけど、そのときの彼らの生き生きとした表情を見て、もし同じことを患者さんと一緒にできたらすごいことだなって思ったんですよね。

—患者さんと一緒に、という強いこだわりがあるんですね。

津野:私は創作のインスピレーションを、精神科の患者さんからもらってきました。中でも、統合失調症の患者さんの妄想や幻聴、それに伴う独特の世界観に、相当な魅力を感じてしまうんです。新しいものを作るために、彼らと一緒に過ごしたいという私の願望でもあります。

自分たちが手作業で作ったものを世界に向けて発信し、それで人を感動させるというのは、すごく特殊な状態だと思うんですよ。私がただの看護師でも、ただのデザイナーでもできなかった。看護師であり、デザイナーでもある私だからこそできることを考えたら、精神科の患者さんたちと一緒に「メゾン」を作ることなんじゃないかなと。今年いっぱいは勉強をしますが、徐々に一緒にやってくれるメンバーを探しに、動き出したいと思います。

—これまでの経験を統合した結果、将来の展望も見えてきたわけですね。

津野:「新しいものをクリエイトして、人を感動させたい」という自分自身のシンプルな気持ちが、精神科の患者に対するイメージや固定概念というものを、少しでも変化させることが、いつかできたらいいなと思っています。

プロフィール
津野青嵐 (つの せいらん)

1990年長野県出身。看護大学を卒業後、精神科病院で約5年間勤務。大学時代より自身や他者への装飾を制作し発表。病院勤務と並行してファッションスクール「ここのがっこう」へ通い、ファッションデザインの観点から自身のクリエーションを深める。2018年欧州最大のファッションコンペ『ITS』にて日本人唯一のファイナリストに選出。



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「幸福度が高い」と言われる北欧の国々。その文化の土台にあるのが「クラフトマンシップ」と「最先端」です。

湖や森に囲まれた、豊かな自然と共生する考え方。長い冬を楽しく過ごすための、手仕事の工夫。

かと思えば、ITをはじめとした最先端の技術開発や福祉の充実をめざした、先進的な発想。

カルチャーマガジン「Fika(フィーカ)」は、北欧からこれからの幸せな社会のヒントを見つけていきます。

スウェーデンの人々が大切にしている「Fika」というコーヒーブレイクの時間のようにリラックスしながら、さまざまなアイデアが生まれる場所をめざします。

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