戸田真琴と考えるアイドル業界の歪み。一方的に夢見るだけじゃない「推し活」を

「推し」活動がはらむ影――無邪気な暴力性を考える

戸田真琴(とだ まこと)
2016年より活動開始。その後、趣味の映画鑑賞をベースにコラムなどを執筆し、現在はTV Bros.で『肯定のフィロソフィー』を連載中。ミスiD2018を受賞。愛称はまこりん。著書に『あなたの孤独は美しい』(竹書房)、『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』(KADOKAWA)。2021年より、少女写真家の飯田エリカとともにグラビア写真を再定義するプロジェクト「I‘m a Lover, not a Fighter.」をスタート。ディレクション・衣装スタイリング・コピーライティング等を務める。

あなたは、アイドルが好きですか?

アイドルをはじめ、「推し」の存在ってとても偉大で不思議ですよね。自分にしっくり来た誰かのことを応援し、友人や恋人とも違って直接触れることはないながら、一人ではどうにもできない心の薄暗いところをその眩しい光で照らしてくれるような、奇跡を何度も起こしてくれる存在。迷い、悩み、苦しみながら生きる途方もない人生というカレンダーの上で、セーブポイントのように待っている推しとの邂逅(かいこう)の日。

2021年、さまざまな人が苦しみながら生きることを強いられている世界で、「推し」の存在に心を守ってもらった人も多いのではないかと思います。そこには、恋心や友愛の気持ちでは分析しきれない未知の感覚がうごめき、十人十色さまざまなかたちで「直接の関わり合いのない誰か」に愛情を捧げる営みがあります。アイドルや2.5次元俳優など誰かに「推される」ことがメインの業務に組み込んである職種の人たちはもちろん、スポーツ選手や棋士、接客業に従事する店舗スタッフなど、「推される」ことを視野に入れていない人たちのことを「推し」と称してファンのように振る舞う人もいます。「推せる」人を見つけたことで人生が潤ったと感じる人も多いことから、一見ポジティブな面ばかりが印象に残るこれらの現象。光の部分が強い分、その影の部分にも目を凝らすことを忘れないようにしたいと個人的には考えています。

きっと何かに心を救われながらなんとか生ききってきた私たちの、繊細だからこそ見つけていきたい小さな綻びたちを、今回は一緒に探していきたいと思っています。

「君のこと、『推せる』のに」にぞっとした記憶

一昔前に比べると、アイドルに強く興味を持つことを他者に打ち明けやすくなったように感じます。特異な趣味という見方もされてきた文化が一般化され、だれもがカジュアルにその話をできるようになったことはいいことである反面、いくつか同時に思い出す腑に落ちない出来事もありました。

私がレストランでアルバイトをしていたときのことです。店長は控え室でYouTubeを流しながら作業をしていることが多く、私たちアルバイト店員が休憩を取るあいだや、帰り支度をするときもよくアイドル映像を見ていました。

たまにタイミングが合うと、店長にパソコンの前まで呼ばれて、アイドルの映像を見せられながら「このグループにいそうだよね」「アイドルに似てるって言われない?」と質問を投げかけられました。ある程度までは受け流していたのですが、ある日仕事の話があると言われ業務時間外に控え室に呼び出された際に、店長がいつも見ていたグループのオーディションが開かれるからそこに出てほしい、と言われたのです。アイドル活動に興味はなかったし、そもそもただアルバイトに来ているだけの自分を勝手にアイドルの卵として見繕っていた店長の眼差しにぞっとして、すぐに断って帰りました。「君のこと、『推せる』のになあ」と言われたことを覚えています。

もうひとつ。高校生の頃にクラスの女子たちで話題になっていた、カフェの男性店員さんがいました。噂をしていた本人たち曰く、人気俳優に似ているそうで、彼女らはその店員さんのファンを自称していました。登下校時に接触や名札の名前を盗み見る目的で店を利用したり、買い物をしない日も店舗の外から観察したり、業務終了時間を狙って待ち伏せをしたり、「ファン活動」のやり方は多岐に渡っていました。「あの店員さんがいるから頑張れる!」などと無邪気な好意を発露しているさまは一見健全な高校生に見えますが、当時から私は彼女らの行動に違和感を持っていました。

私やカフェの店員さんに起こったこれらの事例に共通するのは、「ただ業務を行なっているだけで、一方的なアイドル視をされ、それを軸に干渉されている」ということです。店員さんへの感情が募り、コントロールができなくなって迷惑行為や刑事事件に発展することも実際に起きていて、接客業に従事する人々のなかにはおそらく、明るみになっていないところでもさまざまな迷惑行為の被害に遭っている人がいるのだろうと予想します。

現代に溢れる「推し」という言葉には、こういった「恋人関係になることを目的としない他者への好意」のことをカジュアルに表現し、日常のなかのよくある風景として紛れ込ませる機能があります。そこには、「誰かを好きだと思う気持ちが日々の幸福度を上げてくれる」といったテーマパーク的なエンタメ性がありながら、「推す」対象をある種キャラクター化して一方的に観察して楽しむような無邪気な暴力性が窺えます。なぜ人は「推し」をキャラクターとして消費しようとしてしまうのか、また、なぜその過程で相手の人権が見えにくくなっていくような事象が起こるのか。そこには、アイドル文化とジェンダー問題のあいだにある、一言では割り切れない複雑で強固なつながりが深く関わっているように感じます。

アイドル文化はキャラクター消費のうえに成り立っている

一般社会においては、長らく問題提起と議論を繰り返してきた結果、完全ではないにしろ一昔前よりはあきらかに「女らしさ」「男らしさ」を規範とした抑圧は緩和してきたように思います。それはミュージシャンや俳優など文化芸術に関わる領域にも浸透し、近年では氷川きよしさんのジェンダーレスなふるまいをはじめ、エンタメ業界においても明確な男女どちらかを名乗ること以外の存在の仕方も受け入れられるようになってきました。

しかし、「アイドル」という領域に目を向けると、時代の進歩とはまた別の、時が止まっているような感覚にさせられることがあると感じます。アイドル文化は多くの場合、「男性アイドル」「女性アイドル」という性別によるカテゴリに分けられます。そしてそれらは、異性のファン層をメインターゲットに捉えて活動を行なっている場合が多いです。もちろん韓国の女性アイドルグループを熱狂的に応援する女性ファンたちの姿や、嵐などジャニーズグループのコンサートに足繁く通う男性ファンなどさまざまなファン層の獲得に成功しているグループはあり、一概には言えませんが、アイドルを扱う雑誌などを見ると多くの場合はやはり異性ファンの獲得を目的にプロデュースされている場合が多いと感じます。

近年では女性向け雑誌として男性アイドルの過激とも言える肌見せグラビアやセックス特集など露骨な性的コンテンツでのアイドル起用が目立ったり、一方で女性アイドルは水着グラビアNGや露出度の低い衣装で清楚な印象を貫くグループが支持されていたりと、男性向け / 女性向けの特色をはっきりと切り分けて論ずることは難しいことだと感じます。しかし、草食系男子のブームや個性の強い女性アイドルのブームによって表面上はジェンダーが解きほぐされ多様化してきたようにも見えますが、その実、「アイドル」というものが過度なキャラクター消費の文脈の上に立たされがちである事実も拭えません。

要するに、「男らしい」も「女らしい」も「(男性なのに)繊細」も「(女性なのに)強くて個性的」も、はじめは個々の持っていた性質であったにもかかわらず、「そういうキャラクター」として単純化され認識されてしまうということが往々にして起こっているのです。

「可愛いね」「太ったね」の一言が与えてしまうかもしれない、精神的苦痛

アイドル文化はポップカルチャーであり、エンタメに位置づけられます。エンタメと芸術の違い、アイドルとアーティストの違いのひとつに「よりスムーズに快楽にありつけるか」という見えない規範があると個人的には感じています。アーティスト性というものは、その魅力を理解するまでの回路が複雑であってもそれを紐解く過程までを含めてアーティスト性として見られますが、アイドルの場合はより魅力がわかりやすく即物的であることが求められているような気がします。

その一端を担っているのが、アイドルたちが自らのキャラクターを「元気な子」「クールな子」「おっちょこちょいな子」のように固定化して振る舞うことです。視聴者が「魅力」を感じ取るまでの回路の単純化に貢献しており、日々へのうるおいやストレスの昇華(=即物的な快楽)を求めているアイドルファンにとってそのシステムが都合いいのではないかというのが私の持論です。アイドル業界というものは、視聴者にスムーズに快楽を享受させることで、第一目的である経済的利益を得ており、そこに立っている人々はより人目を引くため、より「推しやすい」アイドルになる。そのために、自らの魅力を無自覚に「らしさ」の枠に閉じ込めざるを得ない流れが読み取れます。それは結果として、特定のカテゴリに充満するステレオタイプの強化と再生産に関与することにもなります。

この特色は、アイドルがファンに対して弱い立場になりやすいという状況により、さらに深刻な被害をもたらします。たとえば、アイドルに対してファンが「ちょっと太ったね」「疲れてる?」「顔が丸いね」「痩せすぎだね」などと身体的変化や特徴を指摘するコメントをしているところを見た人もいるかと思います。上記のような、容姿について感じたことを深く考えずに本人に指摘してしまうコミュニケーション力の不足から来る事例もあれば、もっと悪意のあるいじりや、時には「もっとこういう容姿にならないと推せない」「前髪を切ってくれないと推し変する」など上から目線で相手を想う通りのビジュアルになるよう操作しようとする人さえいます。これらに代表される容姿への指摘は「ボディ・シェイミング」と呼ばれ、容姿への指摘で羞恥心やコンプレックスを煽り精神的優位に立とうとするファン心理は有害な支配欲としてアイドル活動をする人たちに非常に深刻な精神的ストレスを与えています。

また、ネガティブな指摘だけでなく、「今日ビジュアル優勝してるね」「◯◯は三枚目枠だよね」などの一見容姿やキャラクターを褒めているつもりの言葉も、冷静になると実際の人間関係では口にしない強烈なものがたくさんあります。消費者が他者の容姿や性格や性質に対し、一方的に評価を下すことが当たり前になっている環境には、少なからず歪みがあるのだということを忘れてはなりません。

誰かを一方的に好きになり、癒やしや喜びを拝受するかわりに、胸に留めておきたいこと

アイドル性を「いかに快適に疑似恋愛をさせてくれるか」の視点で解釈しているファンたちのあいだでは、アイドルのふるまいから異性の存在を少しでも嗅ぎ取ると過剰な人格否定に走ったり、度を超えたつきまといを行なう者、プライベートを嗅ぎ回る人なども後を断ちません。「恋愛禁止ルール」が公にささやかれることはなくなりましたが、ファンの土壌自体は地続きであり、いまでもアイドルの恋愛を「プロ意識がない」「ファンへの裏切り行為」と解釈するファンも大勢います。

本来、アイドルとして公式に受けている仕事で見せる姿以外の、プライベートな振る舞いにおいてまで、「求められる姿」を演じることをファンが要求するのは業務外の過度な要求で、それ自体がアイドルとファンという関係性を超えた越権行為に違いありません。アイドル文化の経済圏がファンの「好意」を主軸として成り立つ以上、ファンの要求はある種命令に近い強制力をはらんでおり、実際には無視し切ることは難しいのだということは容易に想像できます。

また、アイドルという経済圏が「ファンの理想を叶える」ことを販売コンテンツの重要なひとつとして押し出している限り、過度な理想の押しつけにより演者側がより欠点のない容姿になるための努力・いかなる要求も受け入れるための精神的キャパシティーを広げる努力を際限なく強いられることになるのです。アイドルという仕事を続けるためには心身に大きな負担がかかる業種であることは、確かなことであるにもかかわらず、その苦痛が等身大で伝わる機会はそれほど多くありません。当人たちのリアルな痛みは無視されやすく、たまに明るみに出る場合も「苦痛を乗り越える姿」を描いたドキュメンタリーとして見られたり、病気からの回復を祈るハッシュタグがファン間で出回ったりと、その苦痛自体がコンテンツ化されるパターンも繰り返されています。

心身の苦痛は職業を超えた個人的な領域にも重なるものであるにもかかわらず、そこまでもがエンターテイメントにされてしまうことの無邪気な暴力性には、アイドルのドキュメンタリーを売りにしてきた大人たちや、ファン同士が横のつながりをもって盛り上がりやすい現代のSNS社会も加担しているのだと思います。

自己と職業の境目が曖昧な仕事であるからこそ、一つひとつの心ない指摘や過干渉、恋愛感情を拗らせた末の嫌がらせや過度な依存心が、職業としての演者を越えてその人の心身を深く傷つける可能性があるということは、誰かを一方的に好きになり、癒やしや喜びを拝受するかわりに、理性のある大人として胸に留めておかねばならないことの一つだと思います。

こうして演者側の苦痛に寄り添った文章を綴っていると、あなたがいま、自分には関係のない世界の話だと思ってこの文章を読んでいないかと、不安になります。しかし、私が本当に伝えたいことは、ここからが本題です。

「世界を救うのはいつでも、あなたの心の舵取り次第なんです」

過酷な日常を生きる私たちの心を支えてくれるアイドルたちもまた、過酷な世界で生きています。それをわかってしまったとき、私たちにできることとは一体なんでしょうか?

きちんとコンテンツに対価を支払う。依存しすぎないように自己管理をしながら丁寧にファン活動をする。アイドル本人に、応援している人がいるということを伝える。応援している人に何かが起こったときは、外野の言葉ではなく本人の発信を信じること。そしてなにより、想像力を失わないことが大切です。アイドルという特殊なコンテンツには、「だってそれがアイドルだから」という大義名分のもと、本来はグレーゾーンにあたる性差別や外見至上主義、人権の侵害にあたる行為も見逃される傾向があります。

「ファンがアイドルを見て癒やされる」という、ある種の快楽主義に判断基準を委ねやすいため、ジェンダー規範の強化やルッキズムの温床になる危険があります。差別意識と個人的な好みや主観での好き / 嫌いの判断は、明確な線を引くことが難しい場合もあり、それが「推せる / 推せない」の話にすり替わるとき、ファンは演者をひとりの人としてではなく、コンテンツとして見ることに抵抗を持たないことが往々にしてあります。人道的に許しがたい商売の仕方をしていたとしても、あらゆる疑問点を「だって、推しは頑張っているから」とラッピングして思考停止する流れには、それ自体が差別や社会的問題を容認する行為にもなります。すべてを「頑張っている人を応援する」というエンタメに回収されて鈍感になることは、あなたというひとりの人間の尊厳にも関わる危機だということを認識していてほしいです。

敷居が低く、誰もが気軽な気持ちで触れることのできるポップカルチャーだからこそ、世界をほんの少しましにできるかどうかの、とても大きな一翼をになっていると感じます。

街に流れるアイドルソングに、自分の存在を肯定されたことで生き延ばした命があるように、それを歌っていた人にもあなたと同じ喜びや悲しみや劣等感や危うさがあります。あなたの心もアイドルの心も、いつ壊れてしまうかわからない、だからこそ壊れていないことに価値がある、尊い自我にほかなりません。あなたの人権が守られるべきであることと同じように、アイドルたちの人権が仕事の範囲を超えて踏みにじられることがあってはなりません。

本当の意味で推しを尊重するということは、その存在に対して無邪気に一方的な夢を見ることだけではありません。楽しいだけのはずのエンタメの世界の最中で、小さな違和感を感じ取る感覚を失わない真摯さは、持っているほうが持っていないよりも苦しいかもしれませんが、あなたがそれを持っているかどうかで決定的に世界の優しさの量が変わるのです。それは連鎖して、いつか画面の向こうの推しをも見えないところで救うかもしれません。世界を救うのはいつでも、あなたの心の舵取り次第なんです。

さいごに

北欧カルチャーマガジンFikaの連載「戸田真琴と性を考える」は、今回で最終回となります。

このアイドルにまつわる話は、私自身の職種とは違いながらも昔からずっと伝えたかったことでした。誰かに推してもらうことと誰かを推すことの両方のすばらしさを感じ取りつつ、それが暴走したときになにが起こるのか、哀しいことが起こらないようにどういう心がけが必要なのか、せっかく出会えたわれわれが傷つけ合わずにほんとうの愛情により近いところへ歩いていくためにはなにが大切なのか。それをずっと考えていました。

約5年余りアダルト業界に身を置いてきて痛いほど解るのは、資本主義が人間の尊厳を食いつぶそうと牙を剝くとき、なにかを売る側ができることはとても少なく、主体としての買う側の意識が変わらないと世界を大きく変えることは難しいということです。

消費者が刺激に鈍くなり、より過激なものを求めるほど、つくる側はそれを売ります。その過激なグラビアや映像コンテンツをつくるとき、それを見る人のために、とぐっとこらえるのはいつも、勇気を出して人に見られる仕事をしにやってきた人たちでした。それは私のいる業界ももちろん、今回お話ししたエンタメ業界にも、グラビア業界にも、物書きの人にもクリエイターにも、誰かに消費されることが経済の約束で決まっている人たち皆に訪れるやるせなさです。

世界を変えるのは劇的な力を持ったスターではなく、そのスターを眼差すあなたです。誰を応援しようか、なににお金を払おうか、どんなことに文句を言って、どんなことを賞賛しようか、わけのわからない映画が嫌いだからわかるようにつくれと言うのか、それともわからないなりに楽しむのか、わかるように勉強してみるのか、それを選ぶあなたの手に、ここからの世界がどうなっていくのかの最も重要なハンドルが握られているのです。

世界を変えるのはいつもあなた、大切な誰かをいつか救うのも、遠くにいる誰かが生き残れる世界をつくるのも、いつもあなただということを絶対に忘れないでください。そして、今日よりほんの少しでも明日はましになろう、いまよりほんの少しでも明日の世界をましにしよう、と念じ続けた先に、私もあなたもどちらもが少しでも生きやすい世界が広がっていることを願ってやみません。また一緒に、いろいろなこと考えましょう。

連載:「戸田真琴と性を考える」
AV女優兼コラムニストの戸田真琴による、激変する現代の性について思いを綴るコラム連載。「セックス」「生理」「装い」など、さまざまな視点から性を見つめていく。
これまでの連載一覧はこちらから
プロジェクト情報
『I’m a Lover, not a Fighter.』

AV女優 / 文筆家として活動する戸田真琴と、盟友である「少女写真家」飯田エリカによる、「グラビア」を見つめ直すプロジェクト。

配信情報
『Podcast 戸田真琴と飯田エリカの保健室』

毎週月曜日20時に、Apple Podcast、Spotifyほかで配信中。

書籍情報
『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』

2020年3月23日(月)発売
著者:戸田真琴
価格:1,650円(税込)
発行:KADOKAWA

『あなたの孤独は美しい』

2019年12月12日(木)発売
著者:戸田真琴
価格:1,650円(税込)
発行:竹書房

プロフィール
戸田真琴 (とだ まこと)

2016年より活動開始。その後、趣味の映画鑑賞をベースにコラムなどを執筆し、現在はTV Bros.で『肯定のフィロソフィー』を連載中。ミスiD2018を受賞。愛称はまこりん。著書に『あなたの孤独は美しい』(竹書房)、『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』(KADOKAWA)。2021年より、少女写真家の飯田エリカとともにグラビア写真を再定義するプロジェクト「I‘m a Lover, not a Fighter.」をスタート。ディレクション・衣装スタイリング・コピーライティング等を務める。



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「幸福度が高い」と言われる北欧の国々。その文化の土台にあるのが「クラフトマンシップ」と「最先端」です。

湖や森に囲まれた、豊かな自然と共生する考え方。長い冬を楽しく過ごすための、手仕事の工夫。

かと思えば、ITをはじめとした最先端の技術開発や福祉の充実をめざした、先進的な発想。

カルチャーマガジン「Fika(フィーカ)」は、北欧からこれからの幸せな社会のヒントを見つけていきます。

スウェーデンの人々が大切にしている「Fika」というコーヒーブレイクの時間のようにリラックスしながら、さまざまなアイデアが生まれる場所をめざします。

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