日本でも毎年、賞の行方が話題になる『ノーベル文学賞』。その発表が中止になった2018年の出来事を覚えているだろうか。
『ノーベル文学賞』を選考するスウェーデン・アカデミー会員の夫であり、アカデミーとも関係の深い「文化人」に対し、18人もの女性が性的暴行を受けたと告発したのが事の発端。この対応をめぐってアカデミーで内紛が起こり、女性初のアカデミー事務局長だったサラ・ダニウスを含む5人の会員が活動に参加しないと表明する事態となった。アカデミーは「世間の信頼を失った」ことを理由にその年の文学賞発表を見送ったのだった。
2021年9月に邦訳が刊行された書籍『ノーベル賞が消えた日──スウェーデンの#MeToo 運動、女性たちの闘い』(平凡社)は、スウェーデン国内の「#MeToo 運動」を背景にした、この一大スキャンダルの内幕を描いている。著者は、「文化人」への告発記事を書いた新聞記者マティルダ・ヴォス・グスタヴソン。世界でもっとも男女平等が進んでいる国の一つとされるスウェーデンで、なぜ非道な性的暴行が長年にわたって明るみに出ず、女性たちはどのように沈黙させられてきたのか。本書の翻訳を手がけたスウェーデン在住の翻訳家・羽根由に話を聞いた。
2017年の#MeToo 運動に火をつけた米紙の調査報道に触発
『ノーベル文学賞』の発表中止は、1901年から続く同賞の長い歴史のなかでも、異例の出来事。この事態のきっかけとなったのが、一つのスクープ記事だった。その内容は、『ノーベル文学賞』を選考するスウェーデン・アカデミーと関わりの深い「文化人」ことジャン=クロード・アルノーが長年にわたって行なってきた女性たちへの性暴力を告発するもの。書いたのは、スウェーデン最大の日刊紙『ダーゲンス・ニューヘーテル』文化部記者で、1987年生まれの女性記者マティルダ・ヴォス・グスタヴソンだ。
グスタヴソンの記事が世に出たのは、世界的に「#MeToo 運動」が高まっていた2017年11月──映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの性的暴行を告発した「ニューヨーク・タイムズ」による報道の約1か月後のことだった。本書『ノーベル賞が消えた日──スウェーデンの#MeToo 運動、女性たちの闘い』には、グスタヴソンが同紙の調査報道に触発されて取材を始めてから、アルノーの裁判の有罪判決が出るまでの約1年半の様子が綴られている。
アルノーへの告発とスウェーデン・アカデミーの内紛、そして『ノーベル文学賞』の発表中止という一連の事件は、国を揺るがす大事件だった。当時もリアルタイムで報道に触れていたという羽根は、事件のインパクトをこう語る。
「この事件は毎日ニュースになっていました。初めは『クルトゥールプロフィーレン(スウェーデン語で文化人)』と匿名で呼ばれていたのに、『ノーベル文学賞』の中止が発表された途端に『ジャン=クロード・アルノー』と本名で報道されるようになったんです。それはスウェーデンでは本当に珍しいことで。
犯罪者でも名前を公表することがほとんどないような国なのに、まだ裁判で罪状が確定していない人について、国営テレビなどが本名で報道し始めた。それくらいインパクトが大きい事件だったんです。
『ノーベル賞』は国をあげての賞で、賞金は1億円を超える大きい金額ですし国のプライドもかかっています。その看板である文学賞が飛んでしまったというのは、本当に大スキャンダルでした」
芸術家や知識人の集う地下の文化サロンと、権威の象徴である閉ざされたアカデミー。何十年もの嘘が暴かれた
1989年、ジャン=クロード・アルノーは、妻であり著名な詩人カタリーナ・フロステンソンとともに地下サロン「フォーラム」をオープンさせる。著名な芸術家や知識人が集うその場所は、「文化エリート」の交流の場だったという。
フロステンソンはスウェーデン・アカデミーの会員で、「フォーラム」はアカデミーから資金を得ていた。アカデミーは奨学金やさまざまな賞金を出していることから、文学界で苦労する作家にとって非常に重要な機関であり、業界に絶大な力を持つ。会員の任期は終身制で、秘密保持契約を結ぶため外部からは情報にアクセスできない。文壇のエリートたちで構成される、特権的で非常に閉ざされた組織だ。
アカデミー会員も訪れる上流階級の文化サロンである「フォーラム」は、芸術を志す若者たちにとって憧れの場だった。その主人として文化界への影響力を得たアルノーは、周囲の女性たちに次々に手を出し、自身の立場を利用して沈黙させた。その行為は長いあいだ黙認されてきた。アカデミーが所有するパリのアパートもいくつかの被害の現場となった。
本書は、こうした長年にわたるアルノーの行ない、そして女性たちが沈黙させられてきた構造を、さまざまな立場の被害者たちの証言によって暴き、不祥事が明るみになってもなお変化を拒む古参の男性アカデミー会員と、改革を図る女性局長の対立をも顕わにする。翻訳を手がけた羽根は本書を初めて読んだときの感想を、「この事件について詳しく解説された本が出たことがまず嬉しかった」と話す。
「著者はジャン=クロード・アルノーはどんな人物だったのか、ということに焦点を当てて調べています。本にもあるように、彼の経歴は嘘ばかりだった。それなのに彼の周りの人物もスウェーデンのメディアも疑おうとしなかった。それが何十年も続いていて、有名な詩人と結婚し、スウェーデン・アカデミーと親しいからパーティーに呼ばれたりもしていた。結局、周囲の人たちにとって彼は、自分たちが思いどおりに描ける空っぽの人物であれば良かったんです。そのことを暴いたという点で良いルポだと思いました」
羽根由Twitterより。グスタヴソンが2017年11月に発表した「ダーゲンス・ニューへーテル」の記事羽根由(はね ゆかり)
翻訳家。大阪市立大学法学部卒業。スウェーデン・ルンド大学法学部修士課程修了。訳書に『グレタ たったひとりのストライキ』(海と月社)、『マインクラフト 革命的ゲームの真実』(KADOKAWA)、共訳書に『「人間とは何か」はすべて脳が教えてくれる』(誠文堂新光社)、『ミレニアム4』『熊と踊れ』(ともに早川書房)、『海馬を求めて潜水を』(みすず書房)などがある。スウェーデン在住。
「この本が出たことは#MeToo 運動の成果の一つ」
本書は元となった記事の発表から約2年後、2019年に本国で刊行された。もともと事件の概要を知っていたスウェーデンの人々にとっても、本はインパクトを持って受け入れられたようだ。何か月にもわたってベストセラーとなり、賞も獲得している。
「『Goodreads』という読者投稿型の書評サイトがあるのですが、私が見たときは4,000件くらいのレビューが投稿されていました。人口1千万人しかいないような国の本なのに、これはすごいことだなと思いました」と羽根は刊行当時を振り返る。
国内でのリアクションには「#MeTooへのバックラッシュもあるなかで、この本が出たことは#MeToo 運動の成果の一つ」「文壇の内幕を暴いただけでなく、大勢の女性の証言を引用することにより、レイプ観についても考えさせる本である」といったものなどがある。残念ながら英語では未刊だが、ヨーロッパ各国で翻訳され、台湾でも出版予定だ。
邦訳版の出版にあたっては、羽根が日本の出版社6、7社に売り込んだものの当初は買ってくれるところがなかったという。理由は「スウェーデンの#MeToo全体がわかるものなら良いが、一部を切り取ったものは望ましくない」「暴露本には興味ない」など。その後、北欧の未邦訳本のプレゼンテーションイベントに参加したことがきっかけで平凡社から刊行されることとなった。
内気な筆者が丁寧かつ勇敢に取材を進めていく。多面的な人物描写も本の魅力
社会部ではなく文化部の記者で、調査報道の経験もなかった内気な著者が、取材の過程で自分のなかの先入観や葛藤と対峙しながらも調査を進めていく。著者であるグスタヴソン自身の認識の変化や心の揺らぎが綴られているところも本書の魅力の一つだ。
羽根がとくに惹きつけられたのは、著者の人物描写だという。取材に協力したが取り下げたいと申し出た女性の様子や、記事公開当日の筆者の心情、アルノーの有罪判決を聞いた被害者の言葉など、その時々の関係者の内面が生々しく伝わる。
「人物の描き方が一筋縄ではないんですよね。アルノーにしてもそうです。悪い面も書くけど、本の最初のほうに出てきたルーヴェさん(ルーヴェ・デルヴィンゲル。フォーラムのコンサート責任者を務めていたピアニスト)を最後にも登場をさせて、アルノーについて『愛すべき人だった。彼でなかったらあんなに何十年もサロンを運営することができなかっただろう。彼が恋しくなるよ』みたいなことを言わせていたりとか。
作家のスティーグ・ラーションとのインタビューで、女性蔑視発言をする彼に、ある女性について質問し、『彼女は俺の友人だったのに、なぜ言ってくれなかったんだ』とうろたえさせたりする場面もそうです。人間の良いところも悪いところも含めて、その多面性を描いているのもこの本の魅力だなと思いました」
「女性のほうに落ち度がある」という考えも「沈黙の文化」の形成に加担する。性暴力に関する法律改正の道のり
スウェーデンといえば、ジェンダーギャップ指数ランキングでつねに上位に位置し、「男女平等」のイメージの強い国だ。#MeToo 運動はスウェーデンでも大きく広がり、エンタメ界を筆頭にさまざまな職業の人々が仕事の現場で受けたハラスメントや性的暴行について声をあげていった。
そのようなスウェーデンの#MeToo 運動の内幕がわかることに加え、本書のポイントの一つとして羽根が指摘するのが、スウェーデン国内におけるレイプにまつわる刑法の改正だ。本の巻末にはその変遷がわかる表も収録されている。
スウェーデンの法律では2018年の改正で同意なき性交はレイプとして罪に問われると定められた。本書に登場する最初の被害者の事件は1985年だが、そこから2018年までのあいだにも何度か改正があり、アルノーを告発した女性たちも被害に遭った時期によって当時それが罪に問われるかどうかが異なる。
「後書きにも少し書いたのですが、2005年、2013年にそれぞれ大きな改正があり、最後に2018年の改正で同意のない性交はレイプですよ、というところまでいきました。でも2000年代くらいまでは『女のほうにも落ち度があるんじゃないか』という見方が根強くあった。
裁判になったら、抵抗したのか、当時の服装はどうか、男性遍歴はどうか、飲酒癖はどうかとか、全然関係ないことばっかり注目されて。『ひょっとしたらその人がふしだらだったんじゃないの?』っていう見方が続いていたんです。アルノーのことが長いあいだ表に出なかったのは、そういう世間の空気も関係していたのだと思います」
それでも法律が変化していったのは、そのような状況に疑問を呈する国民の声や、「同意なき性交はレイプである」とする世界的な動きの後押しもあった。
「女性が被害に遭うと私生活が暴かれることになるのはおかしい、という声がだんだん大きくなっていきました。また裁判では『抵抗したか』が問われますが、実際の被害の7割は恐怖のあまり抵抗できない状態だったと言われています。抵抗なんかできない、そういう人も多いのだ、という事実の積み重ねも法改正につながったはずです。
『同意なき性交はレイプ』というのはスウェーデンが最初ではなくてイギリスなんですよね。ドイツやカナダ、アメリカの一部の州でもそうなっていますし、世界全体がその動きについていったというのもあると思います」
「あなたはフェミニストですか?」の質問に「はい」と答えられるか
スウェーデンの「男女平等」は、人々のあいだの議論や働きかけと変化の積み重ねで推進されてきた。国会議員に占める女性の割合も47%と半数近いが、これも国民の意思を反映した結果なのだろう。「スウェーデンは男女平等の国である」という外からのイメージは、国民の自国に対する意識にも根づいているのだという。国内での認識について羽根はこう語る。
「スウェーデンではほとんどどの政党の人も、『私はフェミニストです』って言うと思います。右翼とか左翼とか政治思想に関係なく。ドイツのアンゲル・メルケル元首相が『あなたはフェミニストですか?』と聞かれて答えを濁したことがありましたが、スウェーデンでは『はい』と答えられないとたぶん選挙に勝てない。男女平等を推進しない議員は評価されないということですね。
スウェーデンではジェンダーによるクオータ制(議会における男女格差是正のため、議席などを一定数女性に割り当てる制度)を法律では定めていないですが、どこの政党の比例代表の候補者リストもだいたい男女交互に並んでいて、上から順に当選していく。だから当選者は男女半々くらいになります。そうしないと国民からそっぽを向かれるんですよ。もともと国民のあいだに『スウェーデンは男女平等の国だ』という自負があるからこそ、#MeTooなどの運動も早く広がっていったのではないかという見方もあります」
スウェーデン国会は2021年11月29日にマグダレナ・アンデションを首相に選出。同国で初の女性首相が誕生した
「スウェーデンでも性暴力の告発はしにくかったということ。いま現在もそうかもしれない」
本書で1987年生まれのグスタヴソンは性差別について「広い世界の片隅にあるこの小さな国では、基本的な闘いはすでに終了したという感覚を持っていた」と書いている。そんな著者が、「男女平等」のイメージの裏で起きていた長年にわたる性暴力と、それを覆い隠していたエリート組織の腐敗、女性たちが沈黙させられる構造的な仕組みを明らかにした本書から、「若い世代が、親より上の世代を冷ややかに見ているような視線も感じた」と羽根は話す。
昨年には、グスタヴソンを触発した『ニューヨーク・タイムズ』の報道の軌跡を綴ったノンフィクション『その名を暴け―#MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い―』(ジョディ・カンター / ミーガン・トゥーイー著、古屋美登里訳、2020年、新潮社)も刊行された。小さな声を拾い集めて、地道な調査を重ねる記者たちの仕事ぶりに感銘を受けるとともに、立場の弱い人間の尊厳が傷つけられる構造的な問題の根深さと普遍性も感じる。それは日本でも同様だろう。
羽根は『ノーベル文学賞が消えた日』について「この本はスウェーデンの#MeToo 運動の大きな流れを網羅できてはいない」と前置きしつつ、日本の読者に向けてこう語ってくれた。
「レイプに関する刑法が変化している点や、アルノーを擁護するような姿勢を見せるアカデミーに対して国民から大きな反対運動が起きるなど、草の根で抗議運動が広がったこと。それから『男女平等が進んでいる』と思われているスウェーデンでも、性暴力被害の告発はしにくかったという事実や、そういう歴史があって、いま現在もそうかもしれないということ。そういうことを日本の人にも知ってもらえると良いですね。
それとスウェーデン・アカデミーというのは村なんですよね。非常に閉鎖的だし、大きな抗議集会があったのに、まだ会員の終身制は放棄していない。閉鎖的な組織は腐敗しやすい、ということが伝わってほしいと思います。スウェーデン・アカデミーも事件後に会員の半数が入れ替わって違う組織になったとまで言われていますが、この先どうなっていくのか、というのは私も今後追っていきたいテーマの一つです」
- 書籍情報
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- 『ノーベル文学賞が消えた日──スウェーデンの#MeToo 運動、女性たちの闘い』
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2021年9月15日(水)発売
著者:マティルダ・ヴォス・グスタヴソン
翻訳:羽根由
価格:2,530円(税込)
出版:平凡社
- プロフィール
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- 羽根由 (はね ゆかり)
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翻訳家。 大阪市立大学法学部卒業。スウェーデン・ルンド大学法学部修士課程修了。 訳書に『グレタ たったひとりのストライキ』(海と月社)、『マインクラフト 革命的ゲームの真実』(KADOKAWA)、共訳書に『「人間とは何か」はすべて脳が教えてくれる』(誠文堂新光社)、『ミレニアム4』『熊と踊れ』(早川書房)、『海馬を求めて潜水を』(みすず書房)などがある。スウェーデン在住。