小説、漫画、アニメなどさまざまなかたちで、世界中で愛されている『ムーミン』。その作者であるフィンランドの作家 / 画家、トーベ・ヤンソンはどんな想いでこの物語を生み出したのだろう。
トーベが有名になる前夜にスポットを当てた映画『TOVE/トーベ』では、等身大のトーベが描き出されている。著名な彫刻家だった父親との対立、舞台演出家だったヴィヴィカ・バンドラーとの恋愛など、トーベはさまざまな葛藤を乗り越えて、アーティストとしてのアイデンティティーを見つけ出していく。監督を務めたのはフィンランド出身の女性監督、ザイダ・バリルート。映画のリサーチをするなかで、トーベに対する印象が大きく変わったという彼女に話を訊いた。
トーベ・ヤンソンの有名になる前の日々に光を当てた理由
―映画『TOVE/トーベ』はトーベを身近に感じることができる作品でした。彼女の無名時代に焦点を当てたのはどうしてですか?
バリルート:映画を製作するにあたって膨大なリサーチをしました。40代で出会い、のちに生涯のパートナーとなったトゥーリッキとの関係や島の生活のことはよく知られているので(トゥーリッキ・ピエティラはトーベを公私共に支えたグラフィックデザイナー。二人はトーベが50歳のときに無人島に小屋を建てて、毎夏そこで過ごした。『ムーミン』の登場人物、トゥーティッキは彼女をモデルにしている)、それより前の、若いころのトーベに焦点を当てようと思ったんです。アーティストとして彼女が抱えていた葛藤を描いてみようと。
―なかでも、彼女が30代前半のころに交際したヴィヴィカとの関係が物語の軸になっていますね。
バリルート:トーベの恋愛模様も描きたいと思いました。トーベはアーティストとしてのアイデンティティーを模索しているときに、初めて女性と恋に落ちる。これはトーベにとって革新的な出来事だったし、彼女の人生に与えた影響は大きかったと思うんです。短い関係ではありましたが、ヴィヴィカとの関係を通じていろんな意味で新しい世界へのドアが開いた。しかし、そのころ同性愛は禁じられた関係であり、ヴィヴィカとの恋愛はトーベにとって大きな葛藤でもありました。
―二人が出会ったのは1946年ですが、当時、フィンランドでは同性愛は犯罪だったそうですね。男性とも女性とも恋に落ちたトーベのセクシュアリティーは『ムーミン』をはじめ彼女の作品に影響を与えたと思いますか?
バリルート:間違いなく与えていると思います。多分、社会のマイノリティーの人たちのために語らなければいけない、という強い思いを抱いたのではないでしょうか。それは『ムーミン』の物語からも感じます。
『ムーミン』の世界の価値観は、連帯や平等、誰でも受け入れるというインクルージョンの精神を体現していますが、そういったことは彼女にとってすごく重要だったと思います。「小さき人々(マイノリティー)」を守らなければ、という思いが作品から伝わってきます。
「血のつながりだけが家族ではない」。構想していた別のエンディング
―トーベは若いころ、アーティストたちが共同生活を送る芸術村をつくろうとしていたそうですが、そういうコミュニティー志向は『ムーミン』の舞台になっているムーミン谷や、トゥーリッキと小屋を建てて暮らした島の生活につながるように思えます。彼女はずっと仲間や家族と暮らせる理想郷を探していたのではないでしょうか。
バリルート:私もそう思います。彼女のハートは大きくて、恋愛関係が終わっても相手との友情がつづきました。ヴィヴィカとの関係もそうでした。それだけ彼女にとって仲間や家族の存在は重要だった。そこが素敵なところですよね。
じつはこの映画のエンディングとして考えていたアイデアがあったんです。トーベがトゥーリッキと一緒に島にいるところに、トーベのこれまでの恋愛相手や家族が船を漕ぎながらやってくる、というものでした。それでもよかったな、といまでも思います。なぜなら、トーベにとってコミュニティーはとても大切なものだったから。家族は自分でつくれる、血のつながりだけが家族ではない、と彼女は考えていたんじゃないかと思います。当時としては画期的な考え方ですよね。
「彼女はパーフェクトな人物ではない、だからこそ愛すべき人物なんです」
―そんなふう仲間や家族を大事にするトーベだからこそ、著名な彫刻家だった父親との衝突は心の傷になっていたんでしょうね。映画では、トーベは権威的な父親や保守的なアート界に反発するいっぽうで、作品を認められて世に出たい、という野心も抱いていたことが描かれています。その矛盾する思いが彼女を苦しめていたように思えました。
バリルート:父親との関係は興味深いですよね。この父と娘はお互いに愛とリスペクトを抱いていながらもぶつかりあっていた。映画のリサーチでトーベが友達にあてた手紙を読んだのですが、トーベは父親と激しい喧嘩をして、その後、吐いてしまったことがあるそうです。それくらい親子関係はドラマティックで強烈なものでした。
彼女の絵画を若いころの作品から見ていくと、最初は大胆で勇敢な作風なのですが、この映画で描いた30代から40代前半の作品には強さがない。そこから10年くらい経って、また勇敢で味わい深い作品になっていくので、本作で取り上げた時期は、何かが彼女自身を抑えつけていたんじゃないかと思いました。
―そこには父親との確執が影響していた?
バリルート:父親の期待から自由になれなかったんじゃないでしょうか。映画でも、そういうことを示唆するように描いています。当時、トーベには父に認められたいという気持ちが大きかったと思いますが、「誰かに認められたい」というモチベーションで純粋なアートをつくることはできない。父親に『ムーミン』を作品として認めてもらったことで、トーベは葛藤から解放されて作品に強さが生まれたのではないかと思います。
―若い頃のトーベは画家として評価されたいと思っていたため、当初は生活費を稼ぐためのイラストの仕事として描いていた『ムーミン』を作品としては認めていなかった。そんな彼女がヴィヴィカとの恋愛や父親の死などさまざまな経験を経て、『ムーミン』を自分の作品として受け入れ、本腰を入れて向き合うようになったことで、アーティストとして大きく前進したのではないでしょうか。
バリルート:私もそう思います。『ムーミン』を受け入れたことで彼女は自由を獲得できた。
あと忘れてはいけないのは、イギリスの「イブニング・ニュース」紙にコミックの連載を始めてから7年間、彼女にとって『ムーミン』は締め切りを守らなければならない「仕事」だったということです。
―『ムーミン』は初めに児童小説として発表されましたが、世界的な知名度を獲得したきっかけは「イブニング・ニュース」で連載されたコミックでしたね。トーベは連載のプレッシャーや制約に疲弊し、7年つづけたのちに弟ラルスにコミック連載を引き継ぎました。
バリルート:連載中はつねに作品を提出しなければいけないことで彼女は疲れ切ってしまい、「『ムーミン』は嫌いだ」と発言して『ムーミン』に完全に背を向けてしまいました。でも、私はそういうことすらできる自由が彼女にあったということは素晴らしいことだと思います。
つまり、自分の心から『ムーミン』が生まれてこなくなったことで、作品をつくるのをやめたわけですよね。そして、再び心からつくりたいと思うようになってから『ムーミン』に戻っていった。だから私にとって、トーベの画家としての活動と『ムーミン』が交差するこの時期はとても興味深かったんです。
―『ムーミン』にはトーベの葛藤が反映されているんですね。
バリルート:『ムーミン』は彼女の心から生まれた物語です。『ムーミン』の背景には哲学があり、キャラクターはトーベが出会った人たちや彼女自身の性格にインスパイアされています。例えばスナフキンは自由を象徴しているし、トーベとヴィヴィカの恋愛関係を象徴するようなキャラクター(トフスランとビフスラン)も出てきます。
―映画のなかで、トーベは「ムーミンは臆病で不安を抱えている」と言います。それはトーベ自身が周りにはあまり見せなかった素顔だったのではないでしょうか。
バリルート:そうですね。彼女の素顔のひとつだったのではないかと思います。トーベは自分が思っていることをはっきり言えるまっすぐさを持っているいっぽうで、シャイで自分に不安を感じていました。彼女はパーフェクトな人物ではない、だからこそ愛すべき人物なんです。私たちは彼女を偉大な人物として見てしまいますが、彼女だってほかの人と同じようにいろんなことで葛藤していたことを映画で伝えたかったんです。
「トーベは才能と勇気で、私たち後世の女性アーティストのために道を開いてくれました」
―映画ではトーベがダンスをするシーンが印象的に使われています。エンドロールには実際のトーベ・ヤンソンがダンスする映像も使われていますが、ダンスは情熱的で自由を愛した彼女のキャラクターを象徴するようなアクションですね。
バリルート:映画でトーベを演じたアルマ・ポウスティのおばあさんが実際にトーベと仲が良くて、アルマからトーベはダンスが大好きだったことを聞いたんです。音楽がかかるとダンスせずにはいられなかったそうです。しかもトーベはダンスの仕方がちょっと変わっていて、リズムに合わせて踊ることも、わざと崩して踊ることもできて自分のスタイルを持っていた、と聞きました。
バリルート:劇中のダンスシーンは、リハーサルでアルマがダンスを通じてさまざまな感情を表現してくれて、「これは使える!」と思って映画に取り入れることにしました。最後の映像は、トーベの記録映像を見ているときに見つけたんです。トゥーリッキが島で撮影したもので、私たちにとってとても特別な映像だったので使うことにしました。ダンスは生きることを祝福する表現でもあると思います。「ダンスをできるときは、ダンスすべきだ」ということを、誰もがモットーにしてほしいですね(笑)。
―トーベは1950年代に『ムーミン』で有名になったあとも、絵画、イラスト、小説とさまざまな分野で作品を発表しました。当時、これだけ多彩な活動をした女性アーティストは珍しかったのではないかと思うのですが、フィンランドではどうだったのでしょうか。
バリルート:フィンランドでも彼女のようなアーティストはいなかったと思います。当時、女性アーティストが創作活動と家庭を両立させることはとても難しく、どちらかを選ばなくてはいけなかった。トーベはイラストレーターとして生計を立てることができたので、創作活動を維持することができたんです。彼女は持ち前の才能と勇気で、私たち後世の女性アーティストのために道を開いてくれました。
―監督はこれまで映画の仕事をしてきて、女性であるがゆえの苦労を感じたことはありますか?
バリルート:私は運が良くて、母が画家だったんです。母は小さな村の出身で、母の両親は母がアーティストになることを反対していましたが、彼女はトーベと同じくらい決意が固かった。そんな母親のもとで育ったことは、私がアートの道に進むことをラクにしてくれました。
15歳のとき、母に「撮影監督になりたい」と告白すると、彼女は「なんていいアイデアなの!」と言って背中を押してくれたんです。その後、キャリアを歩むなかで壁にぶつかることもありましたが、大きな問題はありませんでした。完全に男女平等とは言えませんが、フィンランドでは男女監督の比率は50:50くらいなんです。
―同じ比率なんですか。それはかなり進んでいますね。お母さんが画家だということですが、トーベと会ったことはありますか?
バリルート:私はありませんが、母は会ったことがあるそうです。ヴィヴィカは一度、我が家にスパゲッティーを食べに来ました(笑)。
―それは微笑ましい(笑)。今回、映画を通じてトーベという人物に向き合って、いちばん強く感じたことは何ですか?
バリルート:彼女の自由さです。彼女は自分の価値観を曲げることなく、まっすぐに、ありのままに生きた。彼女は人生を祝福していました。だからパーティーも大好きだったんです。彼女のパーティーに参加した人が、この映画を見て言いました。「映画のパーティーのシーンはすごく良かった。でも実際はもっとワイルドだったよ」って(笑)。
―ムーミン谷の住人たちもお祭りやイベントが大好きですよね。ちなみに監督が好きな『ムーミン』のキャラクターは?
バリルート:どのキャラクターにも共感しますし、その日の気持ちにもよりますが、あえて選ぶならミィですね。彼女の反骨精神が好きなんです。
- 作品情報
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- 『TOVE/トーベ』
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2021年10月1日(金)より新宿武蔵野館、Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかで全国ロードショー
監督:ザイダ・バリルート
出演:
アルマ・ポウスティ
クリスタ・コソネン
シャンティ・ロニー
ヨアンナ・ハールッティ
ロバート・エンケル
脚本:エーヴァ・プトロ
音楽:マッティ・バイ
上映時間:103分
配給:クロックワークス
- プロフィール
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- ザイダ・バリルート
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1977年フィンランド・キヴィヤルヴィ出身。『僕はラスト・カウボーイ』(2009)、『グッド・サン』(2011)、『マイアミ』(2017)などで知られる。世界各国の映画祭へ出品され、『釜山国際映画祭』や『シカゴ国際映画祭』などで受賞を果たしている。本作は彼女にとって5本目の監督作となる。