2020年9月を迎え、戸田真琴によるコラム連載『戸田真琴と性を考える』の前回更新から約半年が経った。その間、世界は新しい脅威と出会い、踊らされるように生活を変えざるを得なかった。いままで「当たり前」にできていたことが難しくなり、その代わりに新しい「常識」が生まれた。
本コラムの打ち合わせのため数か月ぶりに彼女と会ったとき、私たちは「常識」への戸惑いについて話し込んだ。決して見て見ぬ振りをできない困窮や閉塞感のある生活、その中でも前向きに経済活動をする必要性――「緊急事態宣言」明けからはやくも4ヶ月弱の時間を過ごした今も、戸惑いはしこりのように、胸の片隅に残っているのだ。
「この数か月間、あらゆるものが変わってしまった日々を、戸田さんはどう見つめていたんでしょうか? 私たちは、どうやって生きていくべきなんでしょうか」。振り返れば漠然とした問いかけだったが、戸田はこのコラムを綴ってくれた。今の時代の生き方に、明確な答えはないのかもしれない。その中でも私たちにできることのヒントを、この記事をきっかけに探ってもらえたら嬉しい。
約半年であらゆることが変わってしまった世の中――戸田真琴は何を考え、暮らしていたのか
みなさん、こんにちは。お久しぶりの方も多いと思います。戸田真琴です。
前回の更新から約半年が経ちました。この間に、あなたも私も、何よりこの世界にも、数えきれないほどのたくさんのことがありましたね。新しい感染症が予想だにしなかったほどに流行し、世界中、そして私たちの生きている街の景色さえもみるみるうちに変えました。たくさんの予定が中止になったり、働き方や暮らし方、人との接し方の再考が余儀なくされました。経済状況の圧迫や、極端な情報の蔓延からくる混乱など、つい1年前には想像できなかった事態に陥ってゆく中で、多くの人が、困惑やストレスを感じた日々でもあったかと思います。
悪いことばかりかと思いきや、この状況になったからこそ気付かされた大切なことも、きっといくつもあったことでしょう。新しいウイルスに怯える暮らしにもそろそろ逞しく順応してきた私たちは、徐々に自由を取り戻そうと動き始めています。学校やお店の再開、「気をつけながら」のレジャーの復活、蔓延した極論を少しずつ洗い落しながら、恐る恐ると回り始める経済。
それぞれの「守るべきもの」や意見が交差する中で、変わらざるをえなかったこと、そしてこのまま変わり続けていこうとする流れ、はたまた元通りに戻ろうとする流れ……前進と後退と現状維持の意向が拮抗し合う、特殊な現在のなかを暮らしている私たち。さまざまな価値観の狭間にゆられながら、みなさんは、どのようなことを感じ、生きていますか。
久しぶりなので、私からも、この数か月間で思ったことを少しだけ、お話しさせていただけたらと思います。
久しぶりに足を運んだ美術館。誰にも目を向けられない、一本の糸を視界に捉えて
緊急事態宣言が明け、少し日々が経過した頃に、あらゆる対策をしながら恐る恐る美術館へ足を運びました。私にとって「もともとの日常」では、おやすみの日には見たいと思っていたものや行きたいと思っていた場所のもとへ足を運び、ゆっくりと歩き回りながら目に見えるものに感じ入ることがとても大切だったので、実のところずっとさまざまな文化的施設の再開を待ち望んでいたのでした。
本来の期間よりも延長して再開されたとある個展では、広い会場の中に、繊細な作品がぽつり、ぽつりと並んでいました。久しぶりに感じる胸がすくような空気に染み入りながら、目と気持ちを凝らして会場内を歩いていると、突然、目の前に細く透明な一本の糸が現れました。その糸も、意図して設置された作品のひとつだったのですが、突然、目の前に……と素直に感じてしまったほどに、私は作品のごく近くにくるまでそこに糸があることに気がつかなかったのです。
そして、入場制限をしているとはいえたくさんの人が存在している会場の中で、目の前のこの糸に気がついて見つめているのは、今この瞬間、私ひとりきりでした。そう気が付いた瞬間、この作品はこれまでどれだけの人に気付かれずに通過されてきたのだろう、と感じ、涙がぐっと湧き出るような思いがしました。
「はやく遅れを取り返さなくちゃ」という焦りが生む、小さくて見過ごせない痛み
「これまでどれだけ、気付かれずにきたのだろう」という思いは、まさにこの大きな変化の波があった数か月間で、私自身が実感したことでもありました。自宅待機が強く推奨されていた期間、仕事や友人との直接的な交流をはじめあらゆる「日常」を諦め、そして家の中と数日に一度の買い出しを軸とした新しい「日常」を組み立て直していく中で、さまざまな発見があったのです。
ずっと、仕事や人との交流、いわゆる「自己の外側」に向いていた意識を、内側向きにせざるを得ない季節に、改めて自分自身の細やかな癖や作法、本当はどういうことが好きでどういうことが嫌いかを知った人も多かったのではないでしょうか。
私自身も、緊急事態宣言が解かれて遅れを取り戻すように倍速で回り始める仕事の流れに、うまくついていけない日々の中、当たり前にやっていた一つひとつの仕事がどれだけ神経を使うものであったのかを体感しました。あまりに、自分自身と、そしてこんな事態の中でもわざわざ連絡を取り合いたいと望むほど親しい人たちだけとやりとりしていたほがらかな日々に慣れてしまったせいで、価値観の近くない人と接しながら送る社会生活というものの、実質的な鋭さ、難しさを痛感することもありました。
久しぶりにたくさんがんばった日のあとは熱を出したり、感染症の疑いがあった日にも、陰性の結果が出るまで腫れ物扱いされることに内心傷ついたりと、この目まぐるしい時代の持つ、生きづらさを何度も実感しました。
私たちはいつも何かと忙しく、小さな傷や痛みに気が付くことよりもずっと、今日も明日も普通にまともに仕事をこなせるかどうかのほうが重要なことかのように思えてしまっていました。そのような焦りによって、一体いくつの細かな傷を、無視して歩いてきたのでしょうか。そういうことを、否が応でも考えさせられる数か月でした。そしてそれは、感染症の流行がおさまらない中、この酷暑の中でもマスクを着用して当たり前に毎日仕事へ通う、この過酷な毎日の中でも、感じずにはいられない議題かもしれません。
「生活」が変わることで、軽減された生きづらさもあった
経済至上主義の世界を生きるということは、社会の発展のために最善の方法のように思われますが、それは同時に、経済を第一に動くことに適さない心や体を持つ人たちを、やんわりと排他する社会のあり方なのかもしれません。それと同時に、命の尊さを何よりも最優先する考え方も最も正しいとされますが、今回のように、人が感染症にかかる可能性をより減らすこと、と、経済状況を守ること、という二つの異なる観点から見たときには、本当に正しいただ一つの回答など存在せず、ただ細やかに、一つひとつの状況を鑑みて、100%はなくともできるだけ、できるだけ悲しい思いをする人が少なく済むように、そのときそのときの「最善」を探していくほかないのかもしれません。
正解でも間違いでもない、せめて少しでもいい結果になるようにと祈りながら、考えながら生きるフェーズにいる、ということなのだと思います。
一人の、女性の身体を持って生きる人間としては、ある種生きづらさが軽減されるような体験が多くあったのも事実でした。例えば、みんながみんなマスクを着用し、他人に近づきすぎないように歩いていく街の中では、わざと女性やか弱そうな人にぶつかったり近くに寄って触ったりするような類の痴漢行為や、単純なナンパや声かけなどの被害に遭うことがめっきりと減りました。
人に会うときはメイクと髪型と服装をきちんとしなければいけない、という強迫観念によって、打ち合わせ1件のためにも身支度に時間をかけていたのが、リモートでの仕事になることによってある程度手を抜くことができるようになりました。
接客業の人たちがマスク着用を義務付けられたことによって、顔と名前を晒して働く、という本当はリスクの大きい行為を、一時的にしなくてもよくなりました。
自分ではコントロールしきれない体調の変化に、「念のため」という魔法の言葉であまり罪悪感を感じることなく休息をとることができるようになりました。
フィジカルディスタンスを保つという心がけによって、人と人とが、無駄に「近づきすぎない」、快い距離感を探し合うようになりました。
必要な犠牲だった、なんて言葉に押し込めていいほど、一人ひとりの人生は軽くありません
女性、男性というくくりに限らない話になりますが、人より繊細な人は、それまでの社会の「普通」のあり方に、小さな見えない細かい傷を増やしていくように、ストレスを感じていたのではないかと思います。人と人との密な繋がり合いやコミュニケーションが重要視され、スキンシップを拒否することは悪とされ、また体調を崩しても無理をして働くことが美徳とされてきた旧時代の価値観に、「命を守る」という前提を課した結果、どうしても変化せざるを得ないことがいくつもありました。
あらゆることの進め方、やり方、あり方が再考・更新されていく過程で、今までの世界を生きづらいと感じていた人の中には、ポジティブな発見があった人も多いのではないでしょうか。
もちろん、今年に起こったさまざまなことを、「神が与えた試練」のように言う人にはうまく共感することができません。必要な犠牲だった、なんて言葉に押し込めていいほど、一人ひとりの人生は軽くありません。しかし、もうすでに起こってしまったことについて、今までどうだったのか、どんな問題が浮き彫りになったのか、そしてこれからどうなっていくべきか、ということは、しっかりと考えていかなければいけないのだと思います。もちろん、無理にポジティブにも、無理にネガティブにもなることなく。今この時代の最善を。あなたの暮らしに根差した最善を。
世界が変わりゆく中、許された「正常」とは?
社会全体が大きなストレスを受けると途端に悪化するSNS民意の怖さだとか、混乱を煽るマスメディアの卑劣さ、不安から他人への攻撃へ転嫁してしまう人間の凶暴性、外仕事を続けることの苦しみ、家に居続けることの苦しみ、そして大事な人やお店や会社を失ってしまった人が多くいること。さまざまな困難に直面したこの社会で、「強く生きる」とは一体どういうことなのだろうか、と、あらためて考え直さずにはいられません。
村田沙耶香さんの『生命式』(2019年、河出書房新社)という小説の中で、印象的な言葉がありました。人肉を食べることが当たり前になった世界で、それが異常とされていた30年前のことを繰り返し思い出しながら、それでも徐々に世界の常識に順応していく主人公が、友人を食べた後に、通りすがりの男性に話をするシーンです。
世界はこんなにどんどん変わって、何が正しいのかわからなくて、その中で、こんなふうに、世界を信じて私たちは山本を食べている。そんな自分たちを、おかしいって、思いますか?
※「山本」=主人公の友人
それに対して、相手の人はこう答えます。
いえ、思いません。だって、正常は発狂の一種でしょう?この世で唯一の、許される発狂を正常と呼ぶんだって、僕は思います。
それならば、今この2020年の今日の「許される発狂」――「正常」とは、一体何なのでしょう。
平穏は、グラスいっぱいになみなみ注がれた透明な水のようなものだと知りました
今年に入ってから、それまでよりも更に加速して目まぐるしく移り変わっていく異常と正常のスパンに、きっと誰だってついていけずに彷徨っているのかもしれません。正常と異常、怒りと悲しみが入れ替わり立ち代わり叩き合う世界で、私は私の平穏を、どのように守っていけるのだろう、と、改めて問い直していこうと思うのです。
たくさんの人が話していることがそのまま「正しいこと」なのだろうか? テレビやネットに流れている情報は、本当はどこからきたのだろうか? 私が働いているこの環境のあり方は、本当に適切なものだったのだろうか? 自分の不安と誰かの不安を推し量っていいものなのだろうか? ……日々考えていくことの中には、自分自身の行動次第で何とかよくしていけそうなものから、運や環境にどうしても左右されてしまうもの、それから、それら両方を超えた「胆力」としか言いようのない力でぐっと堪えるほかないことさえあります。
平穏は、グラスいっぱいになみなみ注がれた透明な水のようなもので、ほんの少し傾いただけでも、簡単にこぼれてしまうのだと知りました。そして、一度壊れたあとでさえほとんどの人が、元通りに戻そうと早回しで動き回るということも。
とても漠然とした努力ですが、目の回るような速さで、時に静止画をずっと見せられているように変な調子でまわってしまうこの特殊な今年の時の流れを、見失ってしまわぬよう、小さな変化を見落とさぬよう、柔らかでも敏感なままで、どうにかいられたらと思うのです。
あまりにアンテナを張り続けていると、流れ来る怒りや悲しみの感情の洪水に心が痛んでしまうかもしれないので、あくまで自分を守りながら、にはなりますが、どうにか面倒くさがって鈍くなることのないように、どうにかひどいデマに踊らされたり何もかもに絶望して萎れてしまうような極端なことにならないように、限られた時間とお金と精神の力をなるべく好きなほう、胸の震えるほうへと使って心を潤い返してもらえるようにと生きるのです。
この大変な2020年で、ほんの少しでも得た新しい時代へのヒントの数々を、無駄にしてしまわぬように。
- 配信情報
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- 『Podcast 戸田真琴と飯田エリカの保健室』
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毎週月曜日20時に、Apple Podcast、Spotify他で配信中
- 書籍情報
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- 『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』
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2020年3月23日(月)発売
著者:戸田真琴
価格:1,650円(税込)
発行:KADOKAWA
- 『あなたの孤独は美しい』
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2019年12月12日(木)発売
著者:戸田真琴
価格:1,650円(税込)
発行:竹書房
- プロフィール
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- 戸田真琴 (とだ まこと)
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2016年にSODクリエイトからデビュー。その後、趣味の映画鑑賞をベースにコラム等を執筆、現在はTV Bros.で『肯定のフィロソフィー』を連載中。ミスiD2018、スカパーアダルト放送大賞2019女優賞を受賞。愛称はまこりん。初のエッセイ『あなたの孤独は美しい』を2019年12月に、2020年3月には2冊目の書籍『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』を発売した。