毎年1000本以上の映画が劇場公開され、Netflixなどのサブスクリプションサービスでも、オリジナルの映像作品が次々に公開される現在。自主映画から商業映画まで、さまざまな規模や形で映画が生まれ続けているのには、どんな理由があるのだろう。人はなぜ、数多ある表現方法の中から、脚本、美術、演技、照明……と数え切れないハードルが立ちはだかり、お金もかかる映画づくりを選び続けるのだろう。
これまでに黒沢清、熊切和嘉らを輩出した自主映画の登竜門『PFFアワード』で昨年グランプリを獲得した『おばけ』には、人からの評価を受けなくても、借金をしても、家族からの愛想を尽かされても、信念を持って自分の映画を作り続けようとする中尾広道監督自身の姿が映し出されている。一方『街の上で』は、『愛がなんだ』など、商業の世界で数々のヒット作を手掛けてきた今泉力哉が、ゆかりある下北沢で撮影を行い、劇中で「自主映画の撮影」を描いた、原点回帰的な作品だ。
今回Fikaでは、中尾広道監督の映画『おばけ』の自主配給をサポートし、これまでも自主映画界から光る才能を見出し続けてきたポレポレ東中野スタッフの小原治と、自主映画を出発点に、群像劇や恋愛映画など、人々の営みを描き続けてきた今泉力哉へのインタビューを敢行。コロナウイルスの影響により、『おばけ』と『街の上で』は共に公開延期となってしまったが、映画を生み出し続ける二人の会話には「映画づくりの原点」や「これからの映画の形」のヒントが詰まっていた。
※この取材は東京都の外出自粛要請が発表される前に実施しました。
「なぜ映画を撮るのか」という思いの多様化が、自主映画づくりの現場には起きているのだと思います。(小原)
―小原さんはポレポレ東中野のスタッフでもありながら『PFFアワード』の一次、二次審査も長年勤めていらっしゃいます。本当にさまざまな映画を観ていると思うのですが、特に「自主映画」に対して、どんな印象を抱いていますか?
小原:自主映画は僕が「人間にとって映画って何なんだろう」という問いを深いところで考えるきっかけになっています。一般的に馴染みがあるのは娯楽としての映画だと思いますけど、実際には映画の形っていろいろあって。自主映画に限って言えば、自分のためだけに撮った映画があって良いし、自分が現実と向き合うために、自己との間にカメラを介入させることによって偶然生まれる「映画」もあるだろうし。極端な話、完成させなくても良い映画だってあると思う。「なぜ映画を撮るのか」という思いの多様化が、自主映画づくりの現場には起きているのだと思います。
―今泉さんは、映画の形について考えることはありますか?
今泉:極端な話、作ろうと思っていたけど作りきれずに終わった物語とか、完成させなくても「映画を作ろう」と思うこと自体も、一つの映画の形だと思います。映画って、作り終わった時は完成した実感がないんです。脚本を書くのも現場も編集も、喜びというより、苦痛を伴う作業ではあるので……。ただ、やっぱり自分にとって、一番達成感があるのは映画を人に観てもらった時ですね。上京して、初めて作った1本目の映画から、友達と場所を借りて有料の上映をしていたので、もしかしたら俺は、お客さんや人と繋がるためのものとして映画を作っていたのかもしれません。初めて自分の特集上映を組んでもらった時にどれくらいの観客を呼べたかとか、その人数まで覚えていて。
小原:僕は自主映画の作り手たちがポレポレで自主興行をする時に、宣伝をサポートすることがあるのですが、そうした作品の中には、映画館での興行を視野に入れずに作られたものもあるんです。例えば、山中瑶子監督の第一長編『あみこ』がそうでした。
小原:『あみこ』は、大学をドロップアウトした山中さんが、どうしようもなく孤独な状況をどうにかしようとして、無理矢理他人を巻き込んで作った作品らしくて。でもそうやって、監督が自分を救うためだけに作った映画が、映画館での上映を経ることで、観客席の誰かの孤独に寄り添う映画に生まれ変わる。僕はこの「生まれ変わり」にも、自主映画のポテンシャルを感じています。僕自身、劇中の主人公と同じ経験をした事がなくても、いつかの自分を思い出さずにはいられなくなりました。今も心の大切な場所にあり続ける映画の一本です。
映画の中で季節が二つ存在するだけで感動するようになっている自分がいるんですよね。(今泉)
―今泉監督は昨年、若手作家による映画コンペティション『TAMA NEW WAVE』にゲストコメンテーターとして参加された際、中尾監督の『おばけ』をご覧になっていますよね?
今泉:はい。『おばけ』には、太陽と雲の関係で、一つのカット中に画面が暗くなって明るくなるというシーンがあるんですけど。それがすごく贅沢な時間だと思いました。商業映画だと、暗くなったら撮影を止めて、明るさが変わらないタイミングで撮影を再開したりするので。空を見ながら。
今泉:最近は予算の関係上、撮影を一つの期間にまとめて行うことが多いので、『おばけ』しかり、時間を贅沢に使っている映画を観ると心動かされます。もはや、映画の中に季節が二つ存在するだけで感動するようになっている自分がいるんですよね。逆に言うと、自主映画なら自然に出来ることや、普通に生活していたら体験するはずのことが、映画の中で起こせない日本映画の現状については、やっぱりちょっとおかしいんじゃないかなとは思います。
―今泉監督にとって久々の「非・商業映画」ともいえる『街の上で』については、いかがでしたか?
今泉:『街の上で』は「お金儲けとは別の部分でやる」と決めてやっていたので、そういうクリエイティブな側面においての政治的な事情みたいなことは一つもありませんでした。だからそれを経て、本当はそういうものしか作りたくないのになって気付いたというか。
小原:集団制作と同じように、一人で映画を作ることにも難しい部分と良い部分があるとは思います。『おばけ』の中尾監督は、一人で映画を作る孤独に七転八倒しながらも、絶対にそこで育まれている時間の実りがあるんですよね。中尾監督が自分に嘘をつかずにものづくりを貫いてきた証が、映画の中で宝石みたいに輝いている。
今泉:それって恋愛とかにも言えると思いますね。一人でいる時の孤独と、誰かといる時の孤独があるというか。あと、自分にちょうど良いサイズっていうのはあると思います。俺は『街の上で』みたいに、コアメンバーが10人くらいの規模感が心地良いなって思いますね。もちろん商業映画みたいに、いろんな人が関わることでしか実現出来ないことっていっぱいあると思うんですけど。
客観的に完璧な映画はどこにも存在しない。けれど個人的な体験の中では、完璧以上の映画が存在する。(小原)
―自主から商業、一人で作った映画から何百人単位のスタッフが動く映画まで、本当にさまざまな映画の形がありますよね。
今泉:そうですね。どんな形であれ、一つひとつの映画はそれぞれ一生懸命作られていると思うんですけど。小原さんには、映画祭に入選する作品とそうでない作品の違いについて聞いてみたいです。想いの差……?
小原:……分かりません(笑)。そもそも正解も不正解もない自主映画を審査すること自体が大きな矛盾をはらんでいるし、だから毎年引き裂かれるような苦しみを抱えながら審査をしていますけど、その矛盾を抱えながら審査することは無駄ではないと思っています。
それと、やっぱり沢山の観客に開かれた魅力を持ち合わせた作品というのはあると思っていて。例えば『おばけ』の中尾君は、この世界で呼吸していくための抵抗として「自分にとっての映画」を探し続けているのだと思いますが、そうやって「個」を深めていくことで大衆性とつながる場所が絶対にあるんですよね。
加えて、素晴らしい映画は、多くの人に開かれながらも、たった一人の誰かのための映画にも成り得るんだと思います。山戸結希監督の作品をポレポレ東中野で上映させていただいた時、お客さんが感情を抑えきれず、その場で泣き崩れる様子や、誤魔化しようのないエモーションが溢れる感想の言葉たちを見て、衝撃を受けました。客観的に完璧な映画はどこにも存在しないけれど、個人的な体験の中では、完璧以上の映画が存在するんだって。
今泉:選考員の好みや、映画祭の特徴によって、どうしても入選作品に偏りは出ると思うんですけど、そこから零れている作品の中にも本当に面白いものがあるんだろうなって思いますね。お客さんが感じる孤独よりもさらに、その作品自体が孤独だったり。もちろん技術的な拙さとかもあると思うんですけど、きっともっといろんな映画があるよなって、自分がすべてを観られていないからこそ思う部分があります。
小原:そうですね。自分が『PFF』の審査をする時には、映画を観るだけでなく、その魅力を具体的に言葉にしていくことが審査員の責任だと感じています。ただ、映画を観る前なら伝わっていたはずの言葉が、観た後だと伝わらなくなっていることもあるんです。
―どういうことですか?
小原:俺がまだその映画を観ていない人に「こういう作品ですよ」と説明すると、皆はその言葉を意味通りに捉えてくれますよね。だけど、皆が作品を観たあとだと、人によって映画の捉え方は本当にさまざまだから、その共通言語が失われてしまうんです(笑)。
今泉:なるほど、宣伝や配給で揉める一つの原因がわかりました(笑)。観る人によって作品の中で、何が大切なのかがずれる。でも、いま小原さんが言っていたように解釈すると、揉めるのも良いことのように感じますね。
小原:複数人が映画を観たことで、共通言語が失われたカオスな状態が生まれる。でも、そんなカオスを生む映画の中にこそ、新しい共通言語の芽が潜んでいるのかもしれないですよね。
社会状況の変化によって、映画の中身が更新されることってありますよね。(今泉)
―そもそも小原さんが、今泉監督の作品を初めて観たのはいつだったんですか?
小原:初めて観たのは、ポレポレ東中野で『終わってる』(2011年)という作品を上映させてもらった時ですね。2011年の3月だったので、上映期間中に東日本大震災が起きて。安易に比べるのは良くないけど、コロナウイルスの対策に追われる今の状況と重なる部分があるように感じます。目に見えないウイルスへの不安や、情報の氾濫、デマや風評被害など、今のこの混沌とした空気を、この対談を何年後かに読み返した時にも思い出すんだろうなって。
今泉:俺も当時のことはよく覚えています。ポレポレは上映再開が早くて、そのあと、再上映もしていただきました。上映していただいた『終わってる』の中には、死んだ人が出てきて「生きてるだけで良いよ」みたいな台詞を言うシーンがあるんですけど。作ったのは震災の前ですし、意識せずに作っていたのですが、当時は謎に重いシーンになってしまっていて……(苦笑)。社会状況の変化によって、映画の中身が更新されることってありますよね。
―それは映画の内容にも言えますし、作品に対する評価についても言える気がしますね。『おばけ』の劇中では、周囲からの評価を受けられない中尾監督自身の様子が映し出された後、それを見た空の星たちが「まだ人間には理解されへんタイプのやつや」と話すシーンが印象的でした。
小原:その映画が、いつどのタイミングで意味を持つかって、本当にわからないですよね。公開から10年後に「最高傑作だ」と言われるかもしれないですし……。
今泉:早すぎた才能、みたいな言葉とかもありますよね。あとは『AKIRA』(2020年の東京オリンピック開催を機に、再開発が進められようとする2019年の「ネオ東京」を描いた大友克洋による漫画。1982年から1990年に発表)がいま予言の書みたいになっているみたいに、作品の内容自体が時を経てますます影響力を持つこともあるし。
小原:作品が現実と緊張関係にあるということですよね。映画には現実を揺らす力があるし、反対に、現実の出来事が映画の見方を変えてしまうこともある。
映画の理解は、画面の中だけにあるわけじゃない(小原)
―小原さんは『街の上で』をご覧になって、どんなことを感じましたか?
小原:『街の上で』は、「終わったあとも続いていく時間」の描き方がすごく面白いと感じました。たとえば主人公の青(若葉竜也)は下北でライブを観ますけど、彼の1日はそれで終わらない。その後スズナリの前で警官と遭遇して、さらにその後、一人で飲み屋に行きますよね。「終わりのあとに続く時間」っていうのを、僕たちは普段から沢山生きてると思うんです。映画を観ることもそうですけど、僕たちは観る映画の数だけその終わりの時間を生きている。これってすごいことだなって思うんですよ。
映画の理解は、画面の中だけにあるわけじゃないと思っていて。映画を観たあと、散歩に行った時にふと、映画の理解が深まる出来事に出会ったり。『街の上で』は、観た人のそういう個人的な体験を通して思い出される映画だし、そういう映画こそ、忘れがたい映画になっていくと思うんですよね。個人と映画との親密な場所に『街の上で』はあるような気がします。
今泉:『街の上で』の劇中で、カメラマンがぼそっと「どんな映画を撮っている時よりも、(撮影スタッフの集団が移動している)この瞬間の方が映画っぽい」みたいなことを言うシーンがあるのですが。俺もロケハンとかで、その土地の人にはどこの誰かもわからない集団がぞろぞろ歩いているのとかを見ると「自分の映画の中には絶対出てこないけど、この瞬間の方がめちゃくちゃ面白い」と思う時があるんです。
『愛がなんだ』(2019年)で朝方にタクシーが去るシーンでも、役者さんの演技が終わったあと、3分くらいカメラを回していて。それは俺がつがいの鳩を見つけてしまったからなんですけど。「劇中のカップルっぽく見えるかも」と思って回していたら、その鳩たちがカメラの前までちょんちょんって寄ってきて。ジョン・ウーの映画みたいに最後、格好よく飛ばないかな、と思っていたら「ポソっ」って飛んで終わるんですけど(笑)。結局尺とかいろんな事情で本編には残せなかったんですが、ああいうこちらが仕込めない時間こそ、本当にすごいものだなと思います。
流れる時間が発酵して、いまを生きている人たちの栄養に変わっていく(小原)
―『街の上で』と『おばけ』は共に、時間軸が面白い作品でもありますよね。
小原:『街の上で』は、時間を流れ去るものとしてではなく、発酵していくものとして捉えている感じがしました。いつ書かれたかわからない手紙が、時間差で届いて来るとか。それは、今泉さんの作品を観てよく思うことでもあります。流れる時間が発酵して、いまを生きている人たちの栄養に変わっていく。そういう視点がすごく好きですね。
今泉:以前『退屈な日々にさようならを』(2016年)という映画を作った際、その前後に『アジェについて』(2015年)という舞台をやったんです。その少し前に、大学の同級生が亡くなっていたのですが、亡くなったことをちょっと経ってから知ったんですよね。その経験が俺の中ですごく大きくて。
時間のズレとか、何かが時間差で届くことが、そのタイミングからより明確になって、自分の作品の一つの要素になっているのかもしれないと、いま言われて気付きました。群像劇を作る時も、情報を知るタイミングみたいなところは意識していますね。お客さんが登場人物と同時に何かを知った方が良いのか、お客さんより登場人物が先に何かを知っていた方が良いのかとか。皆が本当のことを知る時間をどこに置くのかということもすごく意識しています。『街の上で』も、街で生きている人たちの話ではあるけど、そこに生きてる人たちだけの話じゃないと思っていて。
小原:自分が死んだあともこの街の時間は続いていて、その時間の中で、街が僕のことを思い出してくれる瞬間もあるんじゃないかなって感じますね。
今泉:『街の上で』は、全て下北沢の実際にある場所で撮っているから、そのまんまの街がごろんと映画に映っているんです。その場所の持つ、作りようのない歴史もいっぱい残っていますし、それが自分の知っている場所だからこその強度も生まれていたと思います。あとは、導線とかも気にして作っていて。たとえば主人公の青が歩くTHREE帰りのスズナリの道とか、実際にこう動いてもおかしくないよねって感じる導線で撮りました。
映画は、リュミエール兄弟が映画という機械を発明する以前から、存在していたんじゃないかと思うんです。(小原)
―映画って、私たちが死んでからもずっと残り続けていくものだと思うのですが、いわゆる興行として上映される時間って本当に一瞬ですよね。
小原:「映画は映画館で上映するもの」という価値観が依然として強いかもしれませんが、今後映画が表現される場所や形も、映画館の外にこれからますます広がっていくと思います。そうすることで、映画館で映画を観る醍醐味や面白さが改めて掘り起こされていくだろうし。
今泉:映画は映画館で観るから映画なのかとか、携帯で観る映像は映画じゃないのかとか、テレビとの違いは何かとか、本当に難しいですよね。数年前に、子供とプリキュアの映画を観に行った時、上映が始まったら子供が「パパ、映画はどこ?」って聞いてきたんです。
小原:うおお。
今泉:子供はスクリーンに映されたアニメ映画を、大きなテレビとして受け取っていて。映画って別の何かだと思っていたみたいなんです。そこで俺も「映画とは……?」ってハッとしましたね。いま自分たちが「映画」と呼んでいる意味合いでの「映画」は、なくなってしまう可能性もあるんじゃないかとか。嫁も映画監督をしているんですが、結婚した頃、「50年後、自分たちは映画監督を出来ているかな」と話をしたのと同時に「未来には、映画がいまのままの媒体として残っているのかな」という話にもなりました。
小原:僕は、音楽や映画がその名称を持たない頃を想像することがあります。たとえば、夜空をふっと見上げた時、月を見て懐かしさをおぼえたり、そこに感じたりするものがあるじゃないですか。そこで生まれるエモーションみたいなものを、ひょっとしたら昔の人は映画とか音楽だと感じていたかもしれないと思うんです。
小原:音楽がレコードとか、形に残る以前から存在していたのと同じように、リュミエール兄弟が映画という機械を発明する以前から存在していた映画があるんじゃないかって思うんです。それこそ僕はいろんな自主映画から「人間にとって映画って何なんだろう」と考えるきっかけをもらっていますし、そういう場所まで伸びていく眼差しや心の形が『おばけ』にもあると思っています。
たとえ人が観ていなくても、存在する映画がある(小原)
―『おばけ』を観た時、普段観ている映画の形とはかけ離れた語り口に驚かされました。
小原:自主映画の開かれた可能性の一つが「映画」という言葉の中身を自主の側から書き換えていくことだと思っているのですが、『おばけ』は正にそういう映画です。中尾監督みたいに「自分にとっての映画」を探求し続ける人がいる限り、映画の形はこれから変わっていくだろうし、それでも変わらずにあり続ける映画の本質のようなものも、同時に浮かび上がってくると思います。
―『おばけ』は監督が一人で作っている映画にも見えますが、一方で劇中に「映画なんか結局一人で出来へんねんから」というナレーションも盛り込まれていますよね。
小原:その視点がこの映画の面白さでもあって。劇中、監督は一人で映画を作っている自分を面白おかしく見せているようにも見えますが、彼はあくまで日々の暮らしや自然と応答しながらものづくりをしているから、そこには他者が存在するんです。つまり「星が自分を観てくれている限り、映画を作っていける」ということを映画にしている。『おばけ』は中尾監督がこの世界で映画を撮りながら健やかに正直に生きていくための発明品でもあるし、同時に「たとえ人が観ていなくても、存在する映画があるんだ」という証明でもあるんです。映画を撮ることと、この世界を生きていくことが深い部分で繋がっている。
―「人に観てもらえなくても、星や木が観てくれている」と感じられる感性や、「いまは評価されなくても、いつかきっとその時が来る」という信念が、ものづくりのモチベーションを持続させるのかもしれないですね。今泉監督も小原さんも、長く映画に携わられて来たかと思いますが、これまでに「映画から離れたい」と感じたことはないのでしょうか?
今泉:……(小原さんに)あります(笑)?
小原:……ないですね(笑)。逆に、これまでに800回くらい「映画は作らないんですか?」と聞かれたことがあるんですが、それも一度もないんです。でも、僕は上映行為を通して、映画を作っている感覚がどこかにあって。それは観客の側に立っても言えることです。映画を観ることは、監督が一度完成させた作品を、観客の側から新たに作り上げていく行為だと思います。映画を撮ること、上映すること、観ること。その全てが映画に関わる創造行為だと思うので、僕はいまのところ、映画を上映することと観ることでいっぱいいっぱいなんです。
―今泉さんはいかがですか?
今泉:嫌になることはありますけど、離れたいなって感覚はありませんね。やりたくても作れない状況になってしまった人をいっぱい知ってるんですよ。お金の面だったり、いろいろな条件で。撮り続けられることっていろんな要素が噛み合っていないと無理なのかなとか、いっぱい思うところがあります。だから、映画から離れてしまった人の時間を思うことはありますけど、自分自身が「離れたい」と思うことはありませんね。
- 作品情報
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- 『おばけ』
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監督・出演:中尾広道
エンディング曲:真島昌利“HAPPY SONG”
声の出演:金属バット(小林圭輔、友保隼平)
音楽:TRIOLA、波多野敦子、松田圭輔
配給:wubarosier film
- 『街の上で』
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監督:今泉力哉
脚本:今泉力哉、大橋裕之
音楽:入江陽
主題歌:ラッキーオールドサン“街の人”
出演:
若葉竜也
穂志もえか
古川琴音
萩原みのり
中田青渚
村上由規乃
遠藤雄斗
上のしおり
カレン
柴崎佳佑
マヒトゥ・ザ・ピーポー(GEZAN)
左近洋一郎(ルノアール兄弟)
小竹原晋
廣瀬祐樹
芹澤興人
春原愛良
未羽
前原瑞樹
タカハシシンノスケ
倉悠貴
岡田和也
中尾有伽
五頭岳夫
渡辺紘文
成田凌
上映時間:130分
配給:『街の上で』フィルムパートナーズ
- サイト情報
- プロフィール
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- 今泉力哉 (いまいずみ りきや)
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1981年2月1日生まれ、福島県郡山市出身。代表作に『たまの映画』『サッドティー』『退屈な日々にさようならを』『愛がなんだ』など。『こっぴどい猫』でトランシルヴァニア国際映画祭最優秀監督賞受賞。「午前3時の無法地帯」「東京センチメンタル」などのドラマ、乃木坂46のシングルCD特典映像『水色の花』(齋藤飛鳥)『ほりのこもり』(堀未央奈)なども手がける。今年1月より『mellow』(主演:田中圭)『his』(主演:宮沢氷魚)が公開中。金曜ナイトドラマ「時効警察はじめました」やWOWOW「有村架純の撮休」にも演出として参加するなど精力的に活動している。『街の上で』に続き、2021年には『あの頃。』(主演:松坂桃李、脚本:冨永昌敬、原作:劔樹人)が公開予定。
- 小原治 (おはら おさむ)
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ポレポレ東中野スタッフ。自主映画の自主興行では宣伝・配給のサポートも務める。2019年11月からは「space&cafeポレポレ坐」で映画館の興行とは別の形で自主映画を上映していく企画『KANGEKI 間隙』を始める。