※本記事は一部映画本編の内容に関する記述を含みます。あらかじめご了承下さい。
夏至前後に「白夜」が訪れる北欧。スウェーデンではシーズンになると、各地で伝統的な「夏至祭」が開催される。クリスマスのように家族が集まり、ニシンやベリーを食べて過ごし、ポールを建てて、手に手をつないで、その周りをダンスする人々。平和で和やかな光景だ。
でも、ちょっと待ってほしい。そのポールをよく見ると、かたちが男性器のシンボルになっているのだ。そう、日本でも各地で見られるように、農民が五穀豊穣を祝うため男性器を崇めるという、伝統文化に根ざした祭りが、スウェーデンにも存在するのである。何も知らずに初めて夏至祭に参加して、その事実に気づくと内心ギョッとしてしまう人もいるのではないだろうか。
このような古くからの風習をエンターテインメントとしてエスカレートさせ、恐怖映画にしてしまったのが、本作『ミッドサマー』だ。監督は、不穏な演出と過激な描写で観客を震え上がらせた『ヘレディタリー/継承』のアリ・アスター。今回も、とんでもないシーンがいくつも用意されていて、監督の前作に魅了されたファンも期待できる内容となっている。
90年に一度の祝祭に参加する学生たち。村からの歓迎ムードの中に感じていたかすかな違和感が、世にも恐ろしい事態へと発展する
主人公は、ある事件によって家族を失った、アメリカ人女性ダニー(フローレンス・ピュー)。彼女が頼れるのは、いまとなっては恋人の大学生、クリスチャンだけだ。彼が交換留学生ペレの誘いでスウェーデンに出かけると聞いて、事件によって精神的に不安定になっているダニーは、彼ら男子大学生たちと合わせて5人で、いまだ土着の文化が残るという、人里離れたホルガ村を、夏至の時期に訪れることになる。この年は夏至祭が行われると同時に、ペレによれば90年に一度、9日間だけ行われるという、珍しい「浄化の儀式」が見られるのだという。
村人たちはフレンドリーで、滞在するダニーたちを歓迎し、祭りに参加することを許してくれた。だがダニーは、折々に違和感を感じ、村に異様な雰囲気が漂っていることに気づいていく。それは少しずつ膨れ上がり、世にも恐ろしい事態へと発展していくことになる。
アナログな恐怖と、スウェーデンの土着信仰への憧れ。アリ・アスターのルーツを辿る作品
上述したこの作品のストーリーは、同種のホラー映画『ウィッカーマン』(1973年)に非常に近く、おそらく影響を受けているものと思われる。そう考えると、アリ・アスター監督の『ヘレディタリー/継承』も、そのアナログ的な恐怖演出が、クラシカルな味わいやテーマを志向していた作品だったことを思い出す。
本作に、「イングマール」という名前が登場するように、アスター監督はスウェーデンの巨匠監督イングマール・ベルイマンからも強い影響を与えられていることも推測できる。ベルイマン作品では、キリスト教と土着信仰が混在するスウェーデンの土地を舞台に、キリスト教における神への懐疑を描いた『処女の泉』(1960年)が、本作のテイストに近いだろう。その意味で、スウェーデンを舞台にした本作は、アスター監督にとって、自作のルーツをたどっていく旅だったのかもしれない。
文化と一体化し、常軌を逸した思想のもと幸せを享受する村人。現代社会が捨て去ってきた「同じ目的を共有する」独自文化への希望
男子大学生のひとりは、キリスト教が根付く前の風習や民間伝承に興味を持ち、論文を書くために調査を始める。現代の科学文明からすれば野蛮だとされるような、迷信や暴力的な文化の残る村だが、そこには現代人が忘れ去った大事な何かがあるのかもしれない。むしろ、それを野蛮だと感じてしまう、われわれ「文明人」の方が野蛮で傲慢なのかもしれない……。民族学者のレヴィ=ストロース然り、このような古い文化を尊重する考え方というのは、研究者や多様性を大事にする人々を代表するものだ。
これは、現実の構図にも似ている。他者の文化を尊重するのは、寛容でリベラルな考え方であるにも関わらず、その文化自体は非寛容で差別的な場合が少なくないのだ。本作が面白いのは、そんな裏切りが描かれていくところである。村の風習の凄まじさは、彼らが安心して眺めることのできる範疇をはるかに越え、彼らに襲いかかる。それはあたかも彼らのなかにある、「あたたかい目で土着の文化を見守ろう」という視点のなかに含まれた、わずかな傲慢さをも見逃さず、罰を与えているようにすら感じられる。
苦しむ者に寄り添い、村人たちが一緒になって、泣き、叫び、笑い、恍惚となる共同体。その姿は、近代以降の社会が確立してきた「個」としての人権が制限され、一人ひとりが集団として結束し、ひとつの目的、ひとつの意志を共有しているように見える。アスター監督は、そこに希望を見出している部分がある。現代の社会が解決できない心の問題を、現代人の多くが価値を感じずに捨て去ってきた古い風習や、考え方にあるのではないかと。それを真に理解するには、外部からの傍観者としてではなく、自ら文化と一体化して、自分自身も手を汚す必要があると。
一方であぶり出される、集団結束の何とも言えない怖さ。西洋的な「人権」から外れた文化はどこまで許容されるべきか
しかし本作は、それとは真逆の問題も暗示することにもなった。それは、「異なる文化をどこまで許容できるのか」という問いかけについてである。
例えば、アフリカや中東の一部地域では、女子の性器を一部切除するという、人体に苦痛をともなう慣習が、いまも続いている。また、児童を学校に行かせずにハードな労働をさせる地域も存在する。これを尊重すべき地方の文化と考えるかどうかは、かなり難しいところがある。このような慣習を、西洋的な科学文明の側から、「人権侵害だ」と止めようとすることは、果たして傲慢なことなのか。本作でも、イギリスからやってきた男女が、村の風習に異を唱えるなど、同種の葛藤が随所に表れてくる。
小さなところでいうと、私自身も子ども時代に町内会の祭りで、せっかくみんなで作った人形のついた神輿を、焚き火にくべて燃やして、その周りで踊る町内の大人たちを見たとき、「野蛮な風習だ」と思ったことを覚えている。また、日本の奥深い地方の祭りを訪れたときなども、何か異様な感じを味わう瞬間が何度もあった。そんなとき、参加している人々が普通の顔をしているのが、何とも言えず怖いのだ。そのような恐怖は、どこからくるのだろうか。
真の怖さは「現代を反映している」ということ。悲しみや抑圧から解放させてくれる祭りは、戦争とも通じる社会システム
社会学者ロジェ・カイヨワは、祭りと戦争との間に、共通点をいくつも見出している。祭りとは、日頃の生産活動とは真逆の、大いなる消費であり、非日常への高揚であり、精神の解放であると。そこには、戦争が持っているある種の暴力性や、個を失い共同体と一体化することによって生や死に意味を見出すといった、全体主義にも似たシステムが含まれているのではないかと。
本作における主人公ダニーが冒頭で負ったのは、あまりにも大きな衝撃と悲しみだった。それを中和するためには、このような刺激や暴力によって精神を麻痺させるしかなかったのではないか。それは、アメリカ同時多発テロ(9.11)に遭った当時のアメリカが、一丸となって何かに報復しなければ気が済まなかった状況にも似ている。また、共同体の命令によって、ナチスドイツの兵士が自国の市民を含めたユダヤ人の大量虐殺に手を染め、アメリカ軍兵士がテロ容疑者に非人道的な拷問を課したように、本作で描かれる救済には、個人が持っている理性を失わせる危うさが内在しているように思えるのだ。
その意味において、アメリカやイギリス、そして日本を含め、世界が排外的で内向きな傾向を見せている現在、本作はその空気を反映した作品になったといえるのではないか。本作『ミッドサマー』が真に怖ろしく興味深いのは、こういった現代的な問題にどこかで通じているからである。
- 作品情報
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- 『ミッドサマー』
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2020年2月21日(金)からTOHOシネマズ日比谷ほか全国で順次公開
脚本・監督:アリ・アスター
音楽:ボビー・クルリック
出演:
フローレンス・ピュー
ジャック・レイナー
ウィル・ポールター
ウィリアム・ジャクソン・ハーパー
ウィルヘルム・ブロングレン
アーチー・マデクウィ
エローラ・トルキア
ビョルン・アンドレセン
上映時間:147分
配給:ファントム・フィルム