フェミニズム。それは女性の社会進出を推進するだけでなく、性別や立場を問わずに、すべての人が生きやすい世界を実現するための活動を指す言葉だ。それなのに、「男女」という性別の違いを「敵」に置き換え、SNS上や現実世界でも争いは絶えない。
「女性」の視点から「男性」を見ると、ときに彼らの中には、強くて傲慢な存在に思える人もいるかもしれない。しかし、同じように「男性」から「女性」を見たら? もしくは、「男性」が強くて傲慢な振る舞いをしてしまうのは、なぜなのか? 性別は大きな主語で括られてしまいがちだけれど、答えは一つではないし、正解も一つではない。
AV女優・戸田真琴が今回訴えるのは、性別にとらわれない想像力の大切さだ。ときに男性とぶつかり、悲しみ、憎しみに苛まれそうになるという彼女が、それでも想像を諦めないのはなぜか。コラム連載第5弾をお届け。
「誰のことも憎まないで生きたい」と願っていても、悲しみや憎しみを持ってしまいそうな瞬間がある
フェミニズムの名の下に声を上げる人々が多くいる……それは時代が変わっていく風を感じる喜ばしいことであると同時に、こんなにたくさんの人が声を上げなければいけないほどに私たち女性は抑圧されていたのか、と気づかされるような、ある種憂鬱な側面も持っています。
私はなるべくみんなが機会平等のもと幸福に文化的に暮らしていける社会になればいいと願っている一員ですが、女性の権利のために日々戦うフェミニストの方々とまったく同じようには動かないし、日によってはアダルトコンテンツの撮影で、もしもそういった方が目にしたら、卒倒してしまうであろう内容の台本を読んだりもします。
フェミニストの方のスタンスによっては「加害者」として吊るし上げられてしまうであろう、「性欲が強くモテない一般男性」のひとときの癒しになって欲しいと思って撮影に参加するし、そういう人たちの下心ありきの優しさだってなんだか悪いものでもない、本当はシンプルに愛したかったかもしれない、きれいな気持ちとして受け取りたいと願っています。
虐げられてきた人、ただなんとなく孤独な人、温もりや喜びをじゅうぶんに獲得できなかった人……男性でも女性でもそれ以外でも、ただこの人生でなるべく、寂しい人の味方でありたいと願っているただの社会の一員です。誰のことも憎まないで生きていきたいし、自分の正しさは誰かに「右へ倣え」するのではなく、自分で見つけていくのが一番しっくりくると思っています。女性としての生きづらさも感じるけれど、フェミニズムを唱えるならなるべく緩やかなものがいい。誰のことも巨大な敵にしてしまわないで、一人ひとりの人間の集合としてだけの社会を分析していたい。
それでも、ふと、「助けて、フェミニズム」と心の中で叫びだしたくなってしまうときがあります。それも、私の好きな緩やかで男女ともに尊重できるフェミニズムではなく、「男性なんて」と悲しみや怒りの渦巻く最中に放たれる、激しい嫌悪を持ったもの。ほんとうは誰のことも憎みたくないのに、憎まざるを得なくなりそうな、他人に対する深い絶望感。特定の世代や性別、特性に対して敵対するつもりはまるでないのですが、生きているとどうしても、年の離れた男性と、時折激しくぶつかってしまうことが避けられないのでした。
「対等」であることが許されなかった、父との思い出
あくまで私が戦って苦しみを抱いた人々の話であって、もちろん男性全体に主語を置き換えられる話ではないので、「男性である」というだけで同一視されているとは思わないでほしいのだということを先に伝えておきます。
ある一定の世代の、権力や財力や体力、あるいはそれらが強大であるように魅せる能力を持った男性、という人たちと分かり合えないままぶつかりあうことが、女性や、彼らの部下に位置する男性にとって避けられない災害のようなものとなっています。
もっとも身近なところで例を挙げると私の父親になってしまうのですが、父はがたいが大きく、声も大きいため少しでも意見がぶつかると声を荒げて私をねじ伏せようとしました。相手の話を冷静に聞こうという姿勢に乏しく、少しでも私の話す言葉が父の理解の範疇を越えようものなら「おまえ、ガキのくせに小難しい屁理屈ばっかり言って俺を馬鹿にしているんだろ」と怒鳴られ、話を聞いてもらえませんでした。
馬鹿にするつもりは毛頭なく、対話することも理解しあうことも諦めていない、可能性があると思っているから真剣に話そうと試みているのに、そもそも父にとっては、女・年下・娘……である私は、自分よりも格下でなければならない存在に見えているようでした。私は対等を目指しましたが、「対等」は父にとってプライドの傷付けられる結果として処理される。そうなると、私は父と話をする術を持つことができません。女で、年下で、娘……父よりもばかで弱々しくいなければいけない存在、としてしか家族の中にいることができないのでした。
「男は男らしく」の影に隠れた負の感情
これはうちの父だけの特別わがままで非生産的な性格だと思っていたのですが、社会に出てみると似たような思考回路を持って、女性や部下に怒鳴り散らす男性が山ほどいるのだということに気づかされました。男尊女卑が顕著だった時代に生まれ育った男性たちは、「男は男らしく」と教えられる過程で、「男らしくない」とされる弱音、不安、悲しみ、羞恥……本来複雑に絡み合っているはずのネガティブな感情のすべてを、誰かに怒りを放つことでしか表せなくなってしまったのかもしれません。
怒り方にも種類があって、父のように怒鳴り散らす人もいれば、「負け」を喫さないために議論の途中で黙りこくってしまう人、不機嫌になって無視をする人、さまざまなやり口の男性を見てきました。その誰しもに共通するのが、傷つけられた自分のプライドの慰めを、あらゆる手段で他人に求めてくるというところです。
女性、あるいは部下の男性など自分よりも弱い立場にいるであろう人間に対して、ただ素直に怒鳴られることや、負けを認めること、煽てたり謝ったりして機嫌をとってもらうことなどを無言のうちにねだります。社会的立場上逆らえないことが多いまわりの人たちは、大の大人の傷ついた尊大なプライドの慰めを半ば強要されることになります。それを「パワハラ」と呼び、その被害に遭うたびに絶望を感じますが、「パワハラ加害者」は、本当に理解不能な恐るべきモンスターなのでしょうか。
生まれながらに幸福な性などないのかもしれない
女だという理由で馬鹿にし、怒鳴り声や暴力的な言葉遣いで萎縮させ、言うことを聞かせようとする行いは愚行に他なりません。私はたいていの間違いには情状酌量の余地を探そうとする性格ですが、唯一、人としていけないことだと言い切れるのは、「自分のわがままのために、他人を支配したり生き方を歪めようとすること」だと思っています。
彼ら、暴力的な強者男性たちをこんなふうにしてしまったのは、教育、社会、働き方、家庭のあり方、意地やプライド、「男」として生まれたことのプレッシャー……きっと無数の要因が折り重なってのことでしょう。女性としての生きづらさにぶつかるたびに、男性として生まれたかったな、と思うこともありますが、本当に、男性として生まれていたらどうだったのでしょう? 今の生きづらさから解放されて、幸福になれるというのでしょうか。想像してみるけれど、きっと、生まれながらに幸福な性など今のところないのかもしれない、と思わされるばかりです。
パワハラ加害者となってしまう男性は、その怒りの奥に、本当の感情を隠し持っています。上からの物言いしかできない男性とぶつかるたび、その怒鳴り声の中に、本当は何が欲しかったのか、なるべく探すようにしていると、どんどんその悲しい素顔が見えてくることがあります。ただ言うことを聞いて欲しかったり、発言が誤解されて伝わって恥ずかしかったり、誰かに説教をすることで自分が衰えていないのだと実感したかったり、ただ、寂しいだけだったり。
パワハラは許されることではありませんし、誰もが加害者になり得る世の中、面倒臭がらずに目の前の人への想像力を働かせて生きて欲しいものですが、加害者の中にも苦しみや悲しみがあり、そこを分析しないことには本当の社会問題の解決には繋がらない、ということは知っておいたほうがいい大切な事実です。
たとえば本当に私が男性として生まれたとしたならば、上記で話したような強者男性ではなく、彼らの下で虐げられる男性として存在していたような気がします。きっと恋愛経験と人脈に乏しく、社会的権力の中を生き抜く対人スキルも持てず、男遊びの象徴である酒も飲めずに仲間はずれ、恋人やセックスの獲得を自慢しあう合戦の中でも怯えて不戦敗する他なく、満たされない暮らしの中でも憂さ晴らしの方法もない、強者男性たちのように他人に加害する機会さえない。そんな暮らしを送っていることが容易に想像できます。
男性として生まれ、自分の良くないとすることをしないで生きていると想定すると、まるで自分の性格では、男性社会で居場所を獲得する方法が見当たらないのです。
昨年公開された映画『ジョーカー』では、まさにそんな、お金も権力も健康も人脈も恋人もない弱者男性のなまめかしい絶望が描かれていました。変な話ですが、主人公のアーサーは、私が思春期、男性と女性との違いーーそして、誰かの愛を獲得できる人とその機会が乏しい人との違い——を意識してから何度も何度もしつこく想像してきた、「もしも不器用な男性に生まれていたら」というビジョンの中の、私自身のように見えました。寄る辺のない命が、絶望や悲しみを感じる心を閉ざすこともできずに、野ざらしに生き続けることの苦しみを、どうしてもそういう苦しみがこの世に今もあり続けることを、1秒も忘れずに解って居たくて想像していた、あの、悲しい男の人生の苦しみでした。
「私たちは敵同士ではなく、時代という大きなうねりの中でぼろぼろになった、傷だらけの隣人なのですから」
私たちは、自分以外の人生を生きることはできません。それゆえ、社会全体よりも、自分がより強者でいられるか、あるいは安全に生きることが可能な「認められた弱者」でいられるか、というライフラインのことばかり、どうしたって気にしてしまいます。しかし、強さや弱さなどというものは、ただの振り幅でしかありません。弱きものよりも強きもののほうが立派ということでは決してなく、弱きを知る強者が、強きを知る弱者が、それぞれ立派なのです。
私たちは性別の壁だけでなく、世代の壁としての、時代が育てた性質の違いにも隔たれています。絶対に分かり合えないと感じることも多く、その度に相手をカテゴライズして、主語を大きくして、攻撃を仕掛けたくなる人もいるかと思いますが、それでも、生きる時代が重なり合ったのだから、なるべく理解をするよう努め、それでもダメならなるべく傷つけ合わずにそっと離れ、うまく隙間を縫って共存を試みたいものです。
自分の中の助けを求める強い感情が、つい大きな主語で「男性たちは……」と話し出そうとするときには、心の中で、あの何度も想像した弱者男性としての苦しみを思い出します。フェミニズムという大きな流れの中で「男らしく生きる」という言葉の呪いによって傷つき自己否定を強いられてきた男性たちにも、本当の自由の尻尾を掴むチャンスが巡ってくるように祈るばかりです。私たちは敵同士ではなく、お互いに、時代という大きなうねりの中でぼろぼろになった、傷だらけの隣人なのですから。お金も権力も健康も人脈も恋人もない人たちが自分自身のことを好きでいられる世界になってから、初めて楽園というものは成り立つのだと信じています。
- 書籍情報
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- 『あなたの孤独は美しい』
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2019年12月12日(木)発売
著者:戸田真琴
価格:1,650円(税込)
発行:竹書房
- プロフィール
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- 戸田真琴 (とだ まこと)
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2016年にSODクリエイトからデビュー。その後、趣味の映画鑑賞をベースにコラム等を執筆、現在はTV Bros.で『肯定のフィロソフィー』を連載中。ミスiD2018、スカパーアダルト放送大賞2019女優賞を受賞。愛称はまこりん。初のエッセイ『あなたの孤独は美しい』を2019年12月に発売。