国境をこえ、時代をこえていまも世界中の読者を魅了している児童文学作家、アストリッド・リンドグレーン。母国スウェーデンでは、『アストリッド・リンドグレーン記念児童文学賞』という、名を冠した児童青少年文学賞が設けられ、その姿が紙幣に印刷されるほど偉大な存在として知られる。彼女の作品がそれほどに大きな支持を集め愛されてきたのは、なぜなのだろうか。
そんなアストリッドの姓が「リンドグレーン」になる前に、子どもから大人の女性になっていく過程を描いた映画が、『リンドグレーン』だ。本作は、アストリッドが作品を執筆する姿はそれほど描かれず、栄光に輝く姿も映し出されない。その代わり、これまであまり触れられてこなかった、彼女の人生に起きた不幸な出来事と、心の葛藤や悲しみ、ささやかな幸せを表現する。そして、その道のりを通して創作の謎に迫ろうとする。
『ピッピ』『ロッタちゃん』、名作児童文学作品のイメージと重ね合わせて映し出されるエピソードの数々
いまではリンドグレーンのゆかりの地ということが観光資源となっている、スウェーデンの南に位置する田舎ヴィンメルビュー。本作は、そこで農家の娘として育っていくアストリッドを映し出していく。そして彼女の成長を追いながら、大仰にならないように、偉大な児童文学作家となるはずの、彼女の才能の片鱗を慎重に垣間見せようとするのである。
アストリッドの少女時代は、家の手伝いで家畜の世話や畑仕事に追われる毎日だった。過酷な作業も、軽口を叩いたり種芋をぶつけ合いながら遊ぶことで、束の間楽しい時間になる。そこからわれわれは、自然に囲まれたスウェーデンの田舎に生きる子どもたちをいきいきと描写した、リンドグレーン作『やかまし村の子どもたち』のイメージを読み取ることができる。
また、人間の罪の象徴である、神の怒りに触れた退廃の街、ソドムとゴモラについての説教を教会で聞いた帰り道で、「ねえねえ、ソドムとゴモラ、どっちに住みたい?」と、兄妹たちに質問をし、厳格な母親にたしなめられるエピソードや、田舎町のダンス会に行って気晴らしをし、門限を過ぎたことで親に怒られると、「神の前では誰もが平等って言ってたでしょう?」と反発するエピソードによって、常識的な考えに染まらず、自分の考えを押し通そうとする、強情だけどおちゃめな女の子の日常を痛快に描いた『ロッタちゃん』シリーズを思い起こさせる。
さらに、ダンス会でひとり奇妙な踊りを激しく踊り始めるというロックな一面や、20年代に欧米で流行したフラッパー文化に憧れて、ヴィンメルビューで短く髪を切った最初の女性になるという姿から想起させられるのは、奇抜な格好でおそれ知らずの女の子の冒険物語『長くつ下のピッピ』である。
女性の生き方と宗教。保守的な世の圧力に対し、自由な生き方を追い求めるフェミニストとしての一面も垣間見せる
ここで同時に考えさせられるのが、女性の生き方と宗教との関わりについてだ。本来、聖書では女性を差別することを助長しようとはしていない。にも関わらず世の人々は、女性の選択に制限を与え、活動の範囲を縛ろうとする。そして、その根拠に宗教を利用しようとすることが少なくない。そういった欺瞞に、アストリッドはいち早く気づき、声をあげる。それは、女性の人権を主張しようとする、彼女のフェミニストとしての一面である。そして、女性であることの周囲の圧力が弱かった少女時代の自由な気持ちをいつまでも持ち続けようとする。
だが、そんな自由奔放に輝くアストリッドですら、保守的な世の中の圧力に押しつぶされていくことになる。務めた新聞社の上司と恋仲になり、未婚の母になることで、彼女は敬虔なキリスト教区の土地にいられなくなってしまう。さらに経済的な余裕もなくなってしまったことで、生まれてきた息子をデンマークの里子に出すという選択を余儀なくされてしまうのだ。
ストックホルムの出版社で自立した彼女は、まだ息子が幼い頃に呼び戻すことに成功するが、実の母親のアストリッドのもとから離れ、外国で育った息子はなかなか彼女に慣れず、不信感を持たれたまま日々を過ごすことになる。その悲しみは、本作で最も苦いものだが、どうすれば子どもの気持ちをつかめるのかと、彼女は持ち前の創造力を発揮し、心を開かせようとする。
実際にリンドグレーンは、その後に生まれた娘が風邪を引いたときに、元気いっぱいの女の子が冒険するという、創作した話を聞かせてなぐさめたという。それが「ピッピ」の原型となったのだ。本作では、この有名なエピソードは語られないが、メインで描かれる息子との関係のなかに、この感動的な出来事を集約させてあるのだ。
偏見を持たず、自由に幸せを追い求めたアストリッドの精神こそが、不朽の名作を生み出した
リンドグレーンの作品がいつまでも愛され続けるのは、子どもの気持ちをよく理解しているからだといわれる。それは、あらゆる苦難を乗り越えて子どもとの幸せな関係を取り戻したことや、「大人の事情」に振り回されず生きる意志が可能にしたことではないだろうか。
人間は純粋な子どものまま偏見を持たずに、あらゆるものや出来事に感動しながら生きるのが、真の正しい道なのではないのかと、本作はアリトリッドの生きる姿を通して語る。そして本作が解き明かしたのは、そのような理想や、彼女が勝ち取った幸福が、リンドグレーンの著作に本質的な影響を与えているということである。ここで描かれている哲学が、社会のなかで意味を持ち、古びずにいる限り、彼女の作品はいつまでも愛され続けていくはずだ。
- 作品情報
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- 『リンドグレーン』
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2019年12月7日(土)から岩波ホールほか全国順次公開
監督:ペアニレ・フィシャー・クリステンセン
脚本:キム・フォップス・オーカソン、ペアニレ・フィシャー・クリステンセン
出演:
アルバ・アウグスト
マリア・ボネヴィー
マグヌス・クレッペル
ヘンリク・ラファエルセン
トリーネ・ディアホム
上映時間:123分
配給:ミモザフィルムズ