元SIMI LAB・DyyPRIDEが抱く自殺衝動と創作による救い

熱い支持を集めたラッパーとしてSIMI LABの活動を経て、檀廬影(だん いえかげ)名義での初小説『僕という容れ物』を今年上梓した、DyyPRIDE。マイノリティーとしての苦悩、自殺衝動を伴う精神的な混乱――それらを乗り越えてきた彼は、これから社会をよりよくしていくため自分になにができるのか、ずっと考えているという。

彼が口にした、ある人物名が冠された書籍。それを取材後、聞き手は思わず読み返した。そこには、こう書かれていた。「賢治の思考は、いつも幻想の領域において獲得された救済を、必ずこの『世界』の内部で具体的に実現することに向けてくりかえし下降しようとしていた」「じぶんのたおれたところからもっと遠くまでゆくためには何と何とが必要か?」(見田宗介『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』岩波現代文庫 / 2001年)。

Fikaのテーマであるクラフトマンシップや、もの作りへのこだわり、そうした表現の前提として、まず真摯に生きていく、ということを考えてみたい。30歳になった、DyyPRIDEのインタビューをお届けする。

首都圏から遠く離れて。自殺願望に抗いながら過ごす伊東の日々

―今日は横浜でのインタビューですが、普段は伊東にいらっしゃるんですよね?

DyyPRIDE(以下、D):そうですね、ほとんどこっちには来ないですね。去年の6月から伊東に住んでます。

―なぜ伊東だったんですか。

D:こっちは人とか物が多いじゃないですか。伊東に移る前に住んでいたのは横浜市の郊外で、わりと自然が多かったんですけど、そこですら「人や建物が多いな、もう無理だなあ」って。首都圏にいられないな、と限界を感じちゃったんです。

そうしたらあと、田舎に行くしかないじゃないですか。俺は寒いのが苦手で、北のほうに行くとキツいので、じゃあ南のほうに、と思って。伊東は行ったことはなかったんですけど、事前に部屋に目星をつけて、実際に行ってすぐに決めました。

DyyPRIDE(でぃーぷらいど)
1989年、横浜生まれ。2011年に1stアルバム『In The Dyyp Shadow』、2013年に2ndアルバム『Ride So Dyyp』を発表した。またSIMI LABのメンバーの一人として2枚のアルバムをリリースしたが2017年に脱退。2019年に檀廬影(だん いえかげ)名義で小説『僕という容れ物』(立東舎)を発表。

―昭和の文豪・坂口安吾にゆかりがある競輪場の裏なんですよね?

D:はい、その競輪場の裏山に、部屋を借りて住んでいます。自然がすごく豊かなんですよ。自分の細胞が喜んでいて、元気になる感じ。首都圏のほうに来ると疲れてしまって、3日もいたらおなか一杯というか……「もういいや」って(笑)。

以前は音楽活動をやっていたから、仕方なく首都圏にいたところがあったんですが、引っ越してみたら、感覚が全然違いますね。

―2017年にユニットSIMI LABを脱退されたあとは、ラッパーとしての活動は休止状態ですね。首都圏から離れて、精神的には安定しましたか。

D:いや、これはずっと変わらず、調子が悪いと精神病の発作のようなものが出てしまって。鬱になって自殺衝動が出ると、「死ななきゃ」ということしか考えられなくなっちゃうんです。なので、死ぬ代わりにお酒や煙草に手を伸ばす。すると、どさくさに紛れてだんだんよくなって(笑)、でもまた1日2日で具合が悪くなって、の繰り返しですね。

22歳くらいのときにアルコール中毒で脳梗塞のようになってしまって、治すのに5年くらいかかったので、普段はお酒もなるべく飲まないようにはしているんですが。

DyyPRIDEが所属していたSIMI LABの“Show Off”

―できるだけ鬱状態にならないように気を使っているんですね。引っ越す前には、インドにも行かれていたんですよね?

D:インド哲学にすごくハマっていた頃で。俺は小さいときから、たとえば「いまいるこの建物の2階の部屋にある窓から飛び降りたらどうなるんだろう」と考えだしたら、実際に飛んでみないと気が済まない子どもだったんですよ。それで足にヒビが入るような……(笑)。ですから、インドが気になりだしたら、行かずにはいられなかったんです。

―なにか学びはありましたか。

D:実は、全然……。街中にいるグル(導師)は、長い髪や髭こそ立派なんですけれど、お金のことしか考えていない、詐欺師のような奴ばっかりで……正直、サイテーだったんですよ(笑)。ホンモノの人たちは、ヒマラヤの山奥に入って修行しているみたいです。小説も、インドで書こうとしていたんですけど、まったく書けなくて。

―マイノリティーである登場人物の差別される苦悩や、精神的な混乱が書かれた『僕という容れ物』は、純文学の新人賞『第54回文藝賞』(2017年)で最終選考まで残ったのち、単行本として刊行されました。20歳くらいの頃から、文章は書きたかったんですよね?

D:この小説に書いた言葉のリズムが、頭の中で揺らめきだしたのがその頃でした。ただ、何回やってもうまく形にならなくて。インドから帰った頃は、映画を撮りたくて、資金のためにフォークリフトのバイトをしていたんですが、そのうちまた鬱が悪化してしまい……そのあと、4カ月くらいで書いたのが『僕という容れ物』なんです。26歳頃ですね。

―それから伊東へ引っ越した、と。執筆時の記憶はほとんどないそうですね。

D:昼も夜もわからないくらい。たまに部屋のカーテンを開けて、空が青白いと、いまが夕方なのか明け方なのかわからなくて……憑りつかれたように書いていました。「死ななきゃ」という強迫観念より、「書かなきゃ」という衝動が強くて。小説の内容が、ずっと頭の中でループしていました。

―そのエネルギーのほうが勝ったわけですね。

D:はい。そして俺にとってこの小説は、自分の内臓を全部さらすようなものなんです。

「上手さ」ではない。DyyPRIDEが追求する、己の傷口をさらけ出すアート

D:普通の人だったら隠したかったり、みっともなくていいたくなかったりするようなことも全部さらしました。俺に「学」はないですが、それでも溢れてくるのが本当の表現だと思うんです。最初にラップをやったときも、上手くやろうとはまったくせずに、自分の中のリズムだけでやろう、と思って作りましたから。

―ソロのファーストアルバムに収録された“横浜Sky”を聞いたとき、まさに「上手さ」とは違うものを感じました。

D:表現されている内容はこの小説とは違いますが、感覚としてはまったく同じです。でも、それって最初しかできないんですよ。『僕という容れ物』のスタイルでもう1回書こうと思っても、たぶん書けない。

―小説の前半の主人公は、等身大の「僕」。後半は昭和46年に舞台が移り、「僕」と同じような境遇に生きる「ギン」が主人公となります。

D:「ギン」は、前世の記憶なんです。これだけ俺の自殺衝動が強いのは、きっと前世の自分の断末魔が、ずっとエフェクトし続けているからなのでは、という感覚があって。俺は輪廻転生を信じてますけど、この肉体、この時代、この人間の人生は一度きりですから、負のカルマをどう清算できるのか、という小説でもあります。

それとは別に、後半でより文学的になったのは、単純に書くことに慣れていったからだと思います。でも、そういうふうに書けるようになったら、最初のように書こうと思っても書けない。だからこそ、推敲は最低限しかしていなくて、前半も書き直さず、粗削りなままにしてあるんです。

以前に川端康成さんの短編集を読んだんですが、正直、ただ美しいだけで……俺にはなにも残らなかったんですよ。ラップでもスケボーでもなんでも、「ただ上手ければいい」「スキルフルであればいい」という風潮は好きじゃありません。その先にどんな価値があるのか、俺にはよくわからない。

―それとは違う価値や本質を考えている、と。

D:自分をさらしたこの小説が、「ガイジン」といわれて差別されている人、ハーフの人、精神的に弱ってしまっている人の糧になったり、そうした境遇にない人でも、これを読んだことで他人の立場になって考えられるようになったりすればいいな、と思っています。

なにか世のため、よりよい社会のためになったらいいな、という強い意志のエネルギーを具現化させたものなんです。そのエネルギーを整えることなく、パッと固めて、グッと押し込んだ――そういう文章なんですね。

俺は自分の話をしていますが、ひとつのたとえ話として持ち出しているだけで。「ギン」の友人として出てくる「サブ」という在日韓国人のように、俺とは違って、見た目で他人からその境遇がパッとわからない人もいて、その人にはその人の苦しみがあると思う。そして、マイノリティーがメインの小説ではありますが、マジョリティーとして生活していても周囲に居心地の悪さを感じたり、違和感を抱いていたりする人もいるでしょう。いろんなパターンがあるはずですよね。

<疼く古傷が指し示す道 静かに首肯きそちらへ進む>というリリックが印象的なDyyPRIDE“Pain”

「ガイジン」と罵られても相手を祈ることができる。「ファントム」という生き方

―「僕」や「オレ」といった複数の人格、そして作中の言葉でいえば社会的な多くの「矛盾」が入り込んだのが、タイトルにあるような自分=「容れ物」ですよね。ラップのリリックではご自身を「ファントム(幻影)」だとおっしゃっています。

D:この肉体が、容れ物というか。いまいるこのカフェが入っているビルのような「建物」のように、いろんな部屋があって、そこに入っているもので自分が構成されているというか。そして建物としての俺は意識も実体もなくて、透明に感じる。「文章を書いている自分」と「生活をしている自分」も別物ですし、極端なことをいうと、いま、自分がしゃべっている感覚もあまりないんですよ。書いた小説も客観的に見えますし。

<受け流す struggle 不安と雲隠れしてる、I'm aファントム>というリリックが印象的な“Theme Song”

D:だからこそ、自分と他人の境界も曖昧になってきたので、「ガイジンだ」と馬鹿にされても、以前のように胸倉を掴むことなく(笑)、相手の幸福を祈ることができるようにもなってきました。もともと信仰心は薄かったのですが、特定の宗教ということではなく、最近は神様の愛のようなものも感じるようになっています。誰の心にも神が宿っているというような、汎神論といわれる立場ですね。

―「私」というものが希薄なんですね。最近は執筆していらっしゃるんですか?

D:いや、バイトばっかりしていますね(笑)。バイトが本当に忙しくて、このインタビューが終わって伊東に帰ってからも、今月は週7日でずっとバイトです。最近働いていたレストランのボーイの仕事に加えて、家電の配送ですね。

―本の印税も、滞納していた年金と健康保険料で消えたようで……。

D:そうなんですよ(笑)。でも、ただ楽しい、楽なことよりも、大変なことから学ぶことが多いです。あまりにも長い間、ほとんどのことが思い通りにならなかったので、いまはなにも苦にならなくなりました。宗教哲学の本、仏教やヒンドゥー教の経典を読んでも、自分が苦しい経験から考えてきたことと似たことが書いてあることが多いんです。

こうした境遇を乗り越えてきた人間にしかできないことって、きっとあると思うんですよ。自分の中の哲学と経典を、芸術として表現する、というか。お金を稼ぐことじゃなくて、そういう活動をするのが自分の役目なのかな、と考えるようになりました。

メイクマネーではない。誰かのため、に見出した生きる意味

―音楽も小説もバイトも、メイクマネーのためじゃないわけですね。

D:お金も必要ですが二義的なもので、表現は生きる意味のための活動ですね。もし自分個人の幸福を追求するためだったのなら、これまであんな苦しみを体験する必要はなかったと思います。いまは人のために活動したい。それが結局、自分自身の心も救うはずですから。

―そうした姿勢で生きるいま、影響を受けているアーティストなどはいますか。

D:たとえば、宮沢賢治ですね。正確にいえば、宮沢賢治の「生き方」です。宮沢賢治の文章は正直、あまりにも自分と感覚が似ているというか、読んでも「知っている」と思ってしまうことばかりなのですが、彼の「生き方」には刺激を受けます。

―人生の後半は、農場や砕石工場で生きた人ですね。

D:同じように思いを馳せるのは、トルストイです。彼の文章も短編を読んだことがあるだけなのですが、いろんなことが詰まっているし、「生き方」も気になります。印税を放棄しようとしたこととか。

―文豪として名声を得た後に苦悩して自殺さえも考えたあと、民衆の立場に立った活動をしていくようになりますね。

D:そこで「キリスト教とはなんぞや」ということを問い直していたようですし、そうした生きる姿勢のことを考えますね。

―ご自身は、自分で選択したわけではないマイノリティーの境遇において悩んだからこそ、真摯な生き方や活動を選ぶようになった、ということなのでしょうか。

D:そう思います。俺の性格上、もし恵まれた境遇だったら、人を馬鹿にして見下したり、それで自尊心やプライドを保ったりするような人間になったんじゃないかな。底辺だったからこそ、いろんな人の立場を想像できるようになりました。

ラップ、小説の次に夢見るのは映画作り。新藤兼人への憧れ

―今後はどうされていくのですか。

D:さっきも少しいいましたが、いつか映画を撮ってみたいです。劇映画を撮りたい。ずっと小説が書けなかったみたいに、これも長年の「やるやる詐欺」なんですけど……(笑)。

―映画に、並々ならぬ思いがあるんですね。

D:ガキの頃からいままで、最も好きなのが、映画と女性です(笑)。

―伝説的なドキュメンタリー監督・原一男の作品がお好きなようですね。

D:好きですね。彼の映画はすごくしっかりとしたテーマがありますが、普段見ているのはもっと低予算だったり、あとはATGとかのわけのわからないような芸術系だったりの映画です。

―ATGは昭和の前衛映画の代表格ですね。『僕という容れ物』の後半は、大島渚っぽいところがありました。

D:ただ自分で映画を撮るなら、誰が見てもわかって面白い、魅力が伝わるような作品を作りたいですね。

―誰かひな形のような人はいますか。

D:強いてあげるとすれば、新藤兼人ですかね。

―社会派でも知られる、戦後映画の巨匠ですね。

D:メッセージ性、社会的なテーマ性が強くて、同時に映像が美しくて、芸術性も高い。あのバランスですね。

―なるほど。DyyPRIDEさんに新藤兼人的な部分があるというのは、よくわかる気がします。最後に、現在の自分を鼓舞してくれるような人や存在はありますか。

D:なんでしょう……つらいことがあっても、肯定的に生きてきた自分の「魂」ですかね。自分自身というような感覚はあまりないですけど、もし魂が「もうちょっと高い次元で生きているもうひとりの自分」なのだとしたら、それかもしれないです。

―小説の中で描かれてきたような日々を真摯に生きてきた自分の魂が、後押ししてくれている、と。

D:辛い時期にためてきた徳、というんでしょうか。自分が真っ当であれば、どう転んでも悪くはならないと信じて生きてきた。そういう心にいま、救われているような気がしますね。

プロフィール
DyyPRIDE (でぃーぷらいど)

1989年、横浜生まれ。2011年に1stアルバム『In The Dyyp Shadow』、2013年に2ndアルバム『Ride So Dyyp』を発表した。またSIMI LABのメンバーの一人として2枚のアルバムをリリースしたが2017年に脱退。2019年に檀廬影(だん いえかげ)名義で小説『僕という容れ物』(立東舎)を発表。



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「幸福度が高い」と言われる北欧の国々。その文化の土台にあるのが「クラフトマンシップ」と「最先端」です。

湖や森に囲まれた、豊かな自然と共生する考え方。長い冬を楽しく過ごすための、手仕事の工夫。

かと思えば、ITをはじめとした最先端の技術開発や福祉の充実をめざした、先進的な発想。

カルチャーマガジン「Fika(フィーカ)」は、北欧からこれからの幸せな社会のヒントを見つけていきます。

スウェーデンの人々が大切にしている「Fika」というコーヒーブレイクの時間のようにリラックスしながら、さまざまなアイデアが生まれる場所をめざします。

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