植本一子、幡野広志、igoku編集長が死を綴る 人生は誰のもの?

植本一子、幡野広志、igoku編集長が死を綴る 人生は誰のもの?

テキスト・編集
石澤萌(CINRA.NET編集部)

自らが難病と向き合う / 「死人の本音を聞いてみたい。」 テキスト:幡野広志

「あなたの命は誰のものですか?」もしもこんな質問をされたらどう答えるだろうか? 「わたしの命は、わたしのものです」。ほとんどの人がこう答えるとおもう。

そりゃなかには、わたしの命は神のものですとか、大好きなアイドルに捧げてます、とかそういう人もいるかもしれない。戦争をしていた時代ならば、ぼくの命は国のものです。という人もいただろう。さらにずっとずっと昔の時代なら、人身御供や人柱として集落のために命を捧げた生贄だっていたはずだ。

自分の命を自分のものではないと答える人は、自分の命よりも大切なものが見つかっている人なのかもしれない。いいことでも悪いことでもない。そういう価値感の人もいれば、職務をまっとうするために命をかける人だっている。

©Hiroshi Hatano
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常識というのは時代や環境で変わる。「わたしの命は、わたしのものです」と答える人がおおいのは、きっとそれが現代の常識だからだ。

どんな業界にも常識がある、しかしその常識は一般社会では非常識であることはよくある。医療業界では、あなたの命はあなたのものではない。あなたの命は、あなたの家族のものだ。ぼくは病気になって、一番衝撃的だったことが医療業界の常識だ。

家族のための命と聞くと、もしかしたらいい話のように聞こえるかもしれない。 しかし生殺与奪権を家族が握っているといいかえると、もしかしたら地獄のような話かもしれない。

©Hiroshi Hatano
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あなたは自分が死ぬとき、どんな死にかたがいいだろうか?

延命治療をうけたくない人もいれば、延命治療をうけたい人もいる。植物状態や認知症になって家族に迷惑をかけるならば、死にたいとおもう人もいれば、どんな状態でも生きたいと考える人もいる。

カレーが好きな人もいれば、刺身が好きな人だっているのだ。ランチを選ぶときですら人それぞれなんだ、ぼくとあなたの価値観だってまるで違う。生きかたや死にかたの価値観は人それぞれだ、だから否定なんて意味はない。

ぼくは死ぬことは仕方ないとしても、苦しんで死にたくない。苦しさというのは、呼吸や痛みなどの身体的なことだけではない。ぼくが病気になって理解したのは、自由を奪われることの苦しさなのだ。

©Hiroshi Hatano
©Hiroshi Hatano

選択肢がないこと、好きなことができないこと、役に立てないこと、自由を奪われることで、人は生きる価値を見失う。生きがいというのは、自由があってのことだ。

医学的に心臓が動いていることだけが、生きているということではない。

家族というのは1分1秒でも長く、患者に生きてほしいと考える。生きてほしいから死なないように本人が希望をしていない延命治療をしたり、ゆっくり休んでと優しい言葉で本人の趣味や生きがいを奪ってしまう。

なぜ1分1秒でも生きてほしいのかといえば、自分が悲しみたくないからだ。恋人から別れをつげられて、オレは別れたくない!! といいだす人と本質は変わらない。相手の気持ちをまったく考慮できずに、自分の気持ちを優先しているだけだ。

そして、自分だったらされたくない治療を家族に強要してしまう。

©Hiroshi Hatano
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体が生命活動を終えようとすると、食べることをしなくなる。食事は生きるために必要なことだから、死ぬ人には必要ではない。悲しみを先延ばししたい家族は、点滴や胃ろうで栄養を強制的に摂取させる。患者が点滴の針を勝手に抜いてしまうこともあるので、手を拘束される。体が水分を処理できずにタンが発生する、タンが原因で呼吸困難や肺炎の原因になるので、吸引器を喉に突っ込んでタンを吸引する。

強制的に食事をとらせるガチョウから作られるフォアグラが、残酷な食事だと怒る人は、ぜひ日本の医療にも怒ってほしい。

医療技術を否定しているのではない。生きることと、生かすことは違うのだ。本人が望む「生きること」ならばいいのだ、家族が望む「生かすこと」ことで患者が苦しむことがあまりにも理不尽で悲しいことだと感じるのだ。

医者は家族の選んだ選択で患者が苦しむことを知っていても、家族の選択を優先する。家族の主張を無視して、患者の希望を叶える医師は日本にはいないとおもう。患者はどんなに苦しもうが死人に口なしだけど、家族は元気だからトラブルがあると訴訟のリスクがある。

©Hiroshi Hatano
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医療者を患者の家族から守る制度が整っていないから、医師は家族のいうことを聞くしかない。

患者本人が書類で意思を示そうが、そんなものは家族の一言でひっくり返される。運転免許証の裏にある臓器提供の意思表示にサインをしたって、家族が反対すれば臓器は提供されない。病院で死ぬ場合、患者の意思が尊重される保証はまったくない。患者の尊厳を保証する方法が、日本にはない。

飲酒運転が本人だけでなく、お酒を提供したお店や同乗者まで罰せられるように、患者の意思を尊重しない場合、家族と医師が罰せられるよう法律で規制されれば、意思を表示した患者の尊厳は保たれるはずだ。

家族は自分が悲しみたくない、医師は自分が訴えられたくない。利己的な考えがもとなのだから、罰則を与えて規制すればいいのだ。

ぼくは患者の尊厳を奪う行為が、いつか犯罪になるとおもっている。患者の尊厳を奪う家族が、生き地獄にいる悪魔のようにも感じる。患者の尊厳を守るどころか、家族を優先する医師に絶望を感じる。

日本の医療レベルは世界的に高い水準だ。しかしそれは助かる患者にたいしてのことだ。助からない患者にたいして、日本の医療が提供できているものは低いといわざるをえない。気づいてほしいのは、いま健康な人だって、いつか全員助からない患者になるのだ。

あなたの命はあなたのものだ、好きにすればいい。 しかし人の命までもが自分のものだとはおもってはいけない。

©Yukari Hatano
©Yukari Hatano
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書籍情報

『降伏の記録』
『降伏の記録』

著書:植本一子
価格:1,944円(税込)
発行:ポプラ社

『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために』
『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために』

著書:幡野広志
価格:1,620円(税込)
発行:ポプラ社

サイト情報

igoku

福島県いわき市発。「地域包括ケア」を伝えるウェブマガジン。いわきで生まれて、いごいて、そして命を全うする人たちの悦び、悲しみ、楽しさもみんな脱線しながら伝えていきます。

プロフィール

植本一子(うえもと いちこ)

1984年、広島県生まれ。2003年、キヤノン写真新世紀で荒木経惟氏より優秀賞を受賞し写真家としてのキャリアをスタートさせる。広告、雑誌、CDジャケット、PV等幅広く活動中。13年より下北沢に自然光を使った写真館「天然スタジオ」を立ち上げ、一般家庭の記念撮影をライフワークとしている。著書に『働けECD わたしの育児混沌記』『かなわない』『家族最後の日』、共著に『ホームシック 生活(2~3人分)』(ECDとの共著)がある。

幡野広志(はたの ひろし)

1983年東京生まれ。2004年日本写真芸術専門学校中退。2010年広告写真家高崎勉氏に師事。「海上遺跡」Nikon Juna21受賞。2011年独立、結婚。2012年エプソンフォトグランプリ入賞。狩猟免許取得。2016年息子誕生。2017年多発性骨髄腫を発病。近著『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』(PHP)

猪狩僚(いがり りょう)

いわき市役所 保健福祉部 地域包括ケア推進課 平社員。1978年いわき市生まれ。大学卒業後に、ブラジル留学したら、ちょっとハチャメチャな感じになっちゃって、いわき市役所に拾ってもらう。水道局(2年でクビ)→市街地整備(1年でクビ)→公園緑地課→財政課→行政経営課を経て、現職。逆立ちしても、役所の中じゃ出世できないので、勝手に「igoku」を作り、勝手に「編集長」を名乗る。

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