世界一の食都・東京において、未開拓の北欧料理の価値やいかに?
ミシュランも、そしてミシュランのお墨付きなんかとっくに要らなくなった、つまり、誰がどう考えても世界一の食都となった東京において、「北欧料理」の株価というものは、一体どの程度なのか?
各区画にビストロやトラットリアが当たり前に並び、メキシコ料理やベルギー料理、ニューオーリンズのクレオール料理やアイリッシュパブまでが、大したインパクトは与えなくなった、この、コンビニのフードまでが美味しくなってしまったこの街で、ドイツやオランダ等のゲルマン語圏の国の料理と並び、スカンジナビア半島の料理は、未だに「ニシンの燻製で、強い酒飲むんでしょ」程度のパブリックイメージが抜け切れていないだろうし、IKEAに併設されたカフェの啓蒙によって「北欧って、ミートボールにフルーツのソース添えて出すみたいよ」ぐらいの常識が定着したとしても、まだそれは「うわあ、なんか旨そう。専門店があったら行ってみたい」と思わせるには至っていないのが現状ではなかろうか? たった20年前には、トーレ・ヨハンソン(スウェーデンの音楽プロデューサー。1994年にThe Cardigansのデビューアルバム『エマーデイル』のプロデュースを手がけた)が、さらにその20年前にはABBAが、北欧の音楽の素晴らしさを啓蒙し、前述の家具屋に至っては、さらに需要を増やしつつあるという状況の中で。
官能とともに完食した、20年前の北欧料理デビュー
連載初回なので、軽く筆者の「北欧料理デビュー」についての回想を記しておく。それは1995年のベルギー、ブルージュという古都で起こった。筆者は山下洋輔のグループの一員として欧州を楽旅中で、ジャズの楽旅というものは、今日は小さいクラブなので黴くさいユースホステル、明日は文化交流基金が行う官公庁バックの巨大フェスティバルなのでミシュラン星付きのホテル、という非常にダイナミックなものだ。ブルージュの演奏は、ベルギーの文化庁だか何だかの主催の巨大なジャズフェスティバルで、終演後我々は、スーツの着用を義務付けられ、今思い出しても陶然とするような内装の、小さいが夢の世界のようなレストランで、かなりフォーマルな晩餐会に出た。
そこにいる誰もが、当然、ベルギー料理が堪能できると思っていた。しかし、ベルギー文化庁の人間は、公演に関する正式なコメントの後、流暢な英語でこう説明した。「さて本日は、ベルギー料理ではなく、音楽家の皆様にノルマン料理をご堪能いただきます。ノルマン料理は、ノルマン語圏の文化、すなわち北欧と西欧のミクスチュアだとお考えください。皆様の誰もが、初めての経験ではありませんか? 我々がそうしたものを皆様に供するのは、この街で最も優れたシェフが、残念ながらドメスティックなベルギー料理を専門としなかったからです(微笑)」。
端的にそれは、想像を絶するほど美味く、30代だった筆者はアミューズから三段階に及ぶデザートまで含め、官能とともに完食した。しかし、かなりポーションが多く、寒い国の料理独特の濃厚さが仇となったか、身長2メートル近いセネガル人のパーカッショニストさえ、すべての皿は食べきれなかった。気がつけば、完食したのは筆者だけだった。シェフと文化庁のスポークスマンは、食後の葉巻の時間に、筆者に握手を求めてきた。これが極めてモダンな話であることは勿論わかっている。
北欧料理のフルコースが店中を満たした、幼児退行的幸福
「リラ・ダーラナ」は、端的に言ってクラシックスタイルの老舗である。客の大半は、東京在住のスウェーデン人だという。筆者の目的は一つだけ、一人でも多くの日本人にこの店に足を運んで欲しい。筆者が保証する。
欧州料理なのにワインとほぼ無関係で、ポーションは多めで(特にデザートの厚みと重みはがっつりくる)、そして驚くほどスムースに美味い。森と川の文化はエキゾチックで懐かしく、驚いてウキウキしてしまうほどオシャレで、中身がしっかりとある。つまり、我々が知る北欧文化は、そのまましっかり北欧料理を包含している。
「イースターの北欧前菜盛り合わせ」はシェフ曰く「まあ、結局、ニシンのマリネ中心ですけどね(笑)」ではあるが、定番の酢漬けだけでなく、マスタード漬け、チリソース漬けは、無駄なバリエーションを誇る中華料理店の餃子とは全く違い、驚くほどスタンダードな味わいで、かなりの穀類感があるクネッケブロート(約500年前に発明されたとされる北欧の伝統的なパン)とマリボーチーズ(デンマークを代表する牛乳製チーズ)、卵のファルシーと並び「私、ビストロのオードブル・アソートよりこっちが合う」という人も多いと思われる。
「イースターの北欧前菜盛り合わせ」 古くから北欧では、バルト海で豊富にとれるニシンが主要な食材となっている
ジャズ、スタンダード曲のタイトルとして有名な「スエディッシュ・シュナップス」というものがあるが、これはジャズミュージシャン独特の洒落である。
「シュナップス」はドイツの強烈なスピリットであり、敢えてここで「スエーデンのシュナップス」と呼ばれているスピリットの本名は「アクアヴィッツ」という。
「アクアヴィット」 北欧生まれのジャガイモを原料にした蒸留酒
アボカドのムースと海老のカクテルという、ある種定番的な皿には、サワークリームとディルという、「寒い国の味」が含まれ、小海老の仕入れの良さと火通しのデリケートさによる海老の味のクオリティーが冴える。
いよいよ登場の「北欧式ミートボール(本名「ショットブルスタルリック」)」は、癖の無い上に、しっかりした肉汁と歯ごたえの合挽き肉によるミートボールに、フォン・ド・ヴォーとコケモモのソースという、やや退行的な味わいの(フランス料理の無駄かと思わせるほどの大人っぽい味わいと違い、北欧文化には、「欧州的な子供っぽさ」が横溢している)濃厚なソース、たっぷりのマッシュポテト、食の細い者ならば、シェアでも構わないだろう。しかし、日本の洋食の血脈さえ感じさせる、懐かしい退行感で、一息に食べさせてしまう力を持っている。
「スウェーディッシュミートボール」 スウェーデン発祥の料理で、老若男女に愛される伝統的家庭料理
伊仏料理の質量とは異なり、砂糖入れのような小さな壺にぎっしり詰め込まれているメルティン・バターと、キャラ違いが楽しい3種のパンも、「寒い国の子供っぽさ」の守護天使のように料理の進行に寄り添う。
左から「ライ麦入り白パン 丸いパン」「全粒粉のローフブレッド キャラウェー風味」「サワーブレッド」 白パンはスウェーデン人の主食
フランス程度の寒さの国で、大人っぽく愛を考察するのと、凍死の危険がデフォルトである程度の北欧の国で、子供っぽく宇宙を考察するのは、どちらがより愉しい事なのだろうか?
「クラウドベリーのチョコレートムースケーキ」の可愛さと上質なデザイン、全くしつこくない甘みと、押し付けがましくないカカオ感は、「もう、代理店くっつけて、どこかの商業施設で展開すれば、バウムクーヘンどころじゃないんじゃないの?」と思わせるに充分である。
また、驚嘆すべきは、この日、季節メニューとして特別に出して頂いた、イースター用の、タワー型クリームケーキである。これこそそのまま売れる。筆者は、2人の女性編集者が恍惚と見ているのを察知し、「これ、切り分けていただいて皆さんで食べましょうよ。ヤバいですよ」とカメラマンを含む、スタッフ全員に供し、決して広いとは言えない空間は、あっという間に集団的な幼児退行感に満たされていった。
「退行的な甘さ」と「冷徹なファインデザイン」が両立する北欧文化
筆者は、敢えて「童話」という語を避けてこれを書いた。アンデルセンを生んだ北欧が童話の文化を持っており、食文化までが童話的だ。と紋切り型で切ってしまうのは余り安易という以前に、現実的で誠実なルポライトとは言えない。北欧は、車や家具、音楽まで、退行的な甘さと冷徹なファインデザインを両立させたという意味で、西のロシアというより、北のスペインと言っても良いであろう。料金的にも安価でクオリティーは高く、引いてしまうようなエキゾチズムは全くない。一人でも多くの方に足を運んでいただきたい。
そんな「リラ・ダーラナ」の食事に合う音楽作品は、アリス・バブス&デューク・エリントン『セレナーデ・トゥ・スウェーデン』しかないだろう。
アリス・バブス&デューク・エリントン『セレナーデ・トゥ・スウェーデン』(Amazonで見る)
ジャズマニアの間では「北欧ハードバップ」は一つのジャンルである。有名なジャズヴォーカリスト、モニカ・ゼタールンド(伝記映画『Monica Z』も制作された)も含め、アメリカ式の北欧ジャズは山ほどあるが、これはいわゆる「アメリカそっくり」のジャズではなく、幽玄さとエロティシズムが結びついた北欧感と、エリントンのリッチでゴージャスなビッグバンドジャズが見事に融合した名盤であり、全ての北欧料理店がディナータイム用に常備しておく盤だと言えよう。
- 店舗情報
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- リラ・ダーラナ
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住所:〒151-0063東京都港区六本木6-2-7 ダイカンビル2F
営業時間:ランチ12:00~15:00 ディナー18:00~23:00
休店日:日曜・祝日
電話:03-3478-4690
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- 連載『菊地成孔の北欧料理店巡り』
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2003年に発表した『スペインの宇宙食』において、その聴覚のみならず、味覚・嗅覚の卓越した感受性を世に知らしめたジャズミュージシャン、文筆家の菊地成孔。歓楽街の料亭に生まれ、美食の快楽を知る書き手が、未開拓の「北欧料理」を堪能し、言葉に変えて連載形式でお届けします。
- プロフィール
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- 菊地成孔 (きくち なるよし)
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1963年生まれの音楽家 / 文筆家 / 大学講師。音楽家としてはソングライティング / アレンジ / バンドリーダー / プロデュースをこなすサキソフォン奏者 / シンガー / キーボーディスト / ラッパーであり、文筆家としてはエッセイストであり、音楽批評、映画批評、モード批評、格闘技批評を執筆。ラジオパースナリティやDJ、テレビ番組等々の出演も多数。2013年、個人事務所株式会社ビュロー菊地を設立。