戸田真琴が綴る自由な愛の姿 「関係性の呪縛」にとらわれる人へ

「友達」「恋人」「親友」……私たちは同じ世界に生きる人間同士、さまざまな関係性を築きあげながらコミュニティを作り、社会生活を営む。その中には「恋人なら、友達なら、こうあるべき」という、暗黙のルールとも言える価値観も存在する。

でも、ふと立ち止まって考えてみると、誰がそんな規範を決めたのだろう。恋人同士なら身体的なスキンシップをとらなくてはいけないのだろうか。連絡を取り合わなければ、友達じゃないのだろうか。恋愛しない、結婚しない選択をすることは、「普通じゃない」ことだろうか。

連載第8回となる今回のコラムで戸田真琴が目を向けるのは、そうした型にはまったものではない「名前のない関係性」。「こうあるべき」から一歩外れて、名前のない愛で誰かを愛することは間違いじゃないと肯定する。

「友達に戻ろう」から見つめ直す、心地よい「関係性」のあり方

戸田真琴(とだ まこと)
2016年にSODクリエイトからデビュー。その後、趣味の映画鑑賞をベースにコラム等を執筆、現在はTV Bros.で『肯定のフィロソフィー』を連載中。ミスiD2018、スカパーアダルト放送大賞2019女優賞を受賞。愛称はまこりん。初のエッセイ『あなたの孤独は美しい』を2019年12月に、2020年3月には2冊目の書籍『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』を発売した。

「ただの友達に『戻ろう』」というセリフを聞いたことがあると思います。ドラマや映画、はたまた実際の人間関係でも、恋人関係を解消する際に言われることがある言葉ですが、私はいつも、そこはかとない違和感を覚えていました。

また、当たり前に使われている「友達以上、恋人未満」という言葉も同様です。これらの言葉に対して思うのは「そもそも、恋人って友達よりも上位の関係性なの?」という疑問でした。

2020年、コロナ禍で人と人の関係性のあり方があらゆる目線から再考されました。それに関連するかどうかは個人によるかと思いますが、私の身の回りの人や世間のニュースの中でも、恋人関係や夫婦関係を解消したり、同棲を解消して生き方を見つめ直したりといった行動に出る方が多く見られた気がしています。

でも、それは決して暗いニュースだけではなく、中には、恋人関係を解消したことによって、相手に対する愛情の形がもっと心地よいものに進化した、といったような話をしてくれる友人もいました。

今回は、あまりにもさまざまな形がある、「関係性」というものについて考えていきたいと思います。

恋愛、結婚、子どもを産み育てる。「スタンダード」と呼ばれる道を歩むことの難しさ

恋愛関係が至上とされている雰囲気は、思春期から触れる少女漫画などフィクションの世界や、何気ない世間話の中にも充ち満ちています。そもそも私たちが恋愛関係を関係性の一種の至上であると思っているのは、生きてきた環境に「そう思わされている」から、というのも大きかったりもします。

「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」という言葉を聞いたことはありますか? 「恋愛と性愛と生殖が結婚を媒介とすることで一体化された概念」、つまり「①恋愛した相手と ②性的関係も結んで ③子どもを産み育てる(これを結婚によってひとつにする)」といった社会思想のことです(参考文献:千田有紀著『日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか』 / 2011年、勁草書房)。

私たちは、子どもの頃からこれが「当たり前」なのだとあらゆるところで教えられてきました。そのため、私も初めて聞いたときは、「当たり前のことにわざわざ名前なんてついているんだ」と少し驚いてしまったほどです。

しかしよくよく思い返してみると、ロマンティック・ラブ・イデオロギーにぴったりと当てはまることができずにもがき苦しんでいる人が無数に思い当たります。恋愛をし、結婚して子どもを産み育てている、一般的な価値観を持っているように思える人たちの中にも、違和感を抱えながら清濁を合わせ呑んで必死に日々を継続させている人も少なくないのだと知っています。

自分もいつか、恋愛をした相手と結婚して子どもを産んで育てたりするのだろうか。そう考えることもありますが、それに憧れるような素直さはもうとっくに持ち合わせておらず、驚くべきことに漠然と植え付けられてきた「憧れ」を抜きにして考えてみると、その流れが本当に当たり前のことなのかどうかというのは、どんどん分からなくなってしまうのでした。

恋人になるからには、相手のすべてを受け入れなければいけない、というよくある愛の理想についても、そしてそもそも「恋愛のときめき」「性的関係の継続」「出産・子育て」というジャンルの違う営みのすべてを、ひとりの相手と満たすべきであるという一般論に対しても、無理のある話ではないか、と思えてきてしまうのです。

そもそも、好きになる対象が人間で、異性で、性的交渉や結婚も考えられる年齢差や立場で、お互いの家族も認めていて……と、制度上のスタンダードである結婚をしようとするには、よくよく考えると無数の「ハードル」が存在するように思えます。その中には本人たちの努力ではどうにもならないものも少なくありません。

結婚をして家庭を作っている人たちがこれらのハードルをすべて難なく超えているかどうかというところは、本当のところ、当人たち以外には分からないのです。その過程で誰かがものすごく無理をしていても、本心を誤魔化していても、それは全然珍しいことではないと思うのです。

名前のついた関係性だけでくくられることのない、愛の形がある

少しだけ私の話になりますが、最近初めてアイドルを好きになって、知らなかった気持ちを知りました。

活動を見て元気をもらいながら、それぞれの日常を生きていく中で周りを見渡すと、アイドルの結婚を祝うファンの姿や、自分自身が結婚しても夫婦関係とアイドルの応援を両立しているファンの人たちの姿がありました。そういう姿を見て、ふと、愛って本当は自由なものなのではないかと思ったのです。「アイドルもファンも、他の誰かと結婚しても変わらず好き同士でいていいんだ」という、当たり前のようで清々しい気付きは、私にとって少しびっくりするような喜びでした。

もちろん相手が結婚したら好きじゃなくなる、という方もいるとは思いますが、私はそうは思いませんでした。私が誰かと結婚しても、好きなアイドルが結婚したとしても、それでも好き同士でいても何の問題もないのだと気が付いたとき、眼から鱗が落ちるように「自由」を感じたのです。

私はもともと、恋愛感情とそれ以外の愛情をあまり線引きして考える方ではなく、「好き」は名前のつかない純粋な「好き」としてのみ存在させたいと思っていました。そのため、「好き」と感じた相手が歳の近い異性であると途端に「付き合う / 付き合わない」のジャッジを促されたり、逆に同性であると当たり前に友人としての付き合いをしたがっているものだと思われたりすることに、いちいち違和感を感じていました。多くの人が自分自身のざっくりとした性的嗜好を自覚していても、本当のところ、どんな人を、どんな種類の感情で愛するのかどうかは、誰かを愛するということの最中に行かないと分からないのではないかと思ってしまうのです。

もしかしたら私は、そういう「付き合う / 付き合わない」「友情を結ぶ / 結ばない」といった一般化するためのジャッジをされることがずっと苦しかったのかもしれません。好きだと感じたら、世間の目に押されるようにその関係性に名前を付けさせられてしまう。愛する人はたったひとりでなくてはいけなくて、それがひとりもいなくても、ひとり以上いたとしてもどちらも異常と扱われてしまう。そういった価値観の呪縛から離れて、自由の中で人を愛したかったのだと思います。

人には、恋愛や友情や家族愛と名前を付けて割り切れてしまうものだけではなく、もっと名付けきれないほどの多様な愛を持ち得る可能性があります。例えば仲のいい友人に対する感情でも、「そんな彼氏よりも私のほうが君を幸せにするのに」とジェラシーに近い感情になることもあります。それは別に「恋愛対象として見られたい」という願望ではなく、もっと割り切れない愛です。

同学年の男の子に対しても、恋ではなくもっと穏やかな愛のような、君が悲しくなるときには助けてあげたいな、といったような想いを抱くこともあります。「異性を好いている=付き合う」という図式に当てはまらない愛もたくさんあります。

結婚をせず、親御さんに幸せを返すことを生きる目的にしている友人も、彼女にしか持ち得ない愛でいつだって輝いています。

親友同士のような男女の形も、憧れのような友人間の感情も、離れているからこそ続く愛も、ずっと近くにいないと壊れてしまう愛も、さまざまな形があって、そして本当は許されているのだと思います。

他人の愛を「普通じゃない」とジャッジできるのは、その相手を深く知らないから

複数の人と性愛関係を結ぶことは批判されがちな世の中ですが、当人にとってその生活スタイルがしっくりきているのなら、本当の意味ではそれ自体を糾弾する権利は誰にもないのかもしれません。個人的に傷つけられたりする場合は話が変わってくるかもしれませんが、誰もが自分の「普通の生活」をしていて、それが他の誰かにとっては異常なことなのかもしれないのだということを念頭に置いてみると、世界の見え方がまた変わってくるかもしれません。

他人の愛を「普通じゃない」とジャッジできるとしたら、それはその相手を深く知らないからなのだと思います。もしも自分の抱く愛について、普通じゃないのではないかと感じることがあったなら、そのときには一旦その感情に名前を付けることを諦めてみてほしいのです。愛というものは、社会がシステムの都合上定義したものよりも、雑誌やテレビで取り沙汰されてるものよりも、本当はずっと自由なものなのかもしれません。

「恋愛関係を解消したらもっと相手のことが大事になった」という友人の話を聞いたとき、私は、それはもしかしたら恋愛しつづけるよりも素敵なことなのかもしれないな、と思いました。友情も恋愛感情も、熱したり冷めたり、ちょうどぴったりとはまる季節とずれてしまう季節がそれぞれあったりするもので、本当に形を変えない愛などそうそうあるものではないのかもしれません。

それでも、愛は進化していくことができます。

どんな名前の付いた関係性にも実のところ優劣はなく、そして名前の付かないものを含んでずっとゆっくりと色や形を変えていくのだとしたら、それは何て素敵なことなのでしょうか。

分かりやすい名前がなくとも、他人に対して、「この人は私の人生の登場人物のひとりだ」と感じることがあります。たった1行しか出てこなくても深い深い愛を宿している場合もあるし、たくさん書かれたのちプツリと登場しなくなるとしても、そのページがなくなったわけではありません。人物紹介の欄では分からない、その人の出てくるページすべてを読まないと理解できない関係性もあります。そういうページが何枚も何枚も重なって今の自分があるのだということを、とても遥かなものを見るような思いで理解するとき、私たちは愛について自由であるべきなのかもしれない、と感じます。

現行の社会制度など具体的な不自由は多々ありますが、それは、私たちの心までを本当に縛る理由にはなりません。自分の人生の登場人物たちを、名前の付かない愛で愛することができたら、その先には、もっとふくよかな未来があるかもしれないと感じているのです。

配信情報
『Podcast 戸田真琴と飯田エリカの保健室』

毎週月曜日20時に、Apple Podcast、Spotify他で配信中

書籍情報
『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』

2020年3月23日(月)発売
著者:戸田真琴
価格:1,650円(税込)
発行:KADOKAWA

『あなたの孤独は美しい』

2019年12月12日(木)発売
著者:戸田真琴
価格:1,650円(税込)
発行:竹書房

プロフィール
戸田真琴 (とだ まこと)

2016年にSODクリエイトからデビュー。その後、趣味の映画鑑賞をベースにコラム等を執筆、現在はTV Bros.で『肯定のフィロソフィー』を連載中。ミスiD2018、スカパーアダルト放送大賞2019女優賞を受賞。愛称はまこりん。初のエッセイ『あなたの孤独は美しい』を2019年12月に、2020年3月には2冊目の書籍『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』を発売した。



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「幸福度が高い」と言われる北欧の国々。その文化の土台にあるのが「クラフトマンシップ」と「最先端」です。

湖や森に囲まれた、豊かな自然と共生する考え方。長い冬を楽しく過ごすための、手仕事の工夫。

かと思えば、ITをはじめとした最先端の技術開発や福祉の充実をめざした、先進的な発想。

カルチャーマガジン「Fika(フィーカ)」は、北欧からこれからの幸せな社会のヒントを見つけていきます。

スウェーデンの人々が大切にしている「Fika」というコーヒーブレイクの時間のようにリラックスしながら、さまざまなアイデアが生まれる場所をめざします。

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